ボサノバ


※名前のリンクはアーティストの公式ホームページです。
また、曲は全てYouTubeにリンクしています。



Antonio Carlos Jobim(1927~1994)
 1927年1月25日、リオ・デ・ジャネイロのチジュッカ地区に生まれる。フルネームはAntonio Carlos Brasiliero de Almeida Jobim。14歳の頃からピアノを始め、作曲も学び始める。音楽家の道を選びたいと願っていたが、家族を養うために建築学校に入学。しかし、音楽を捨て切れず、ラジオやナイトクラブでピアノ奏者として働いたが、著名なプロジューサーに才能を見出され、コンチネンタル・レコードに入社して、曲の譜面起こしや編曲などの仕事を手掛けるようになる。1953年にオデオン・レコードの音楽家兼レコーディング・ディレクターとして採用された。ジョビンが脚光を浴びたのは、後に『黒いオルフェ』として映画化された舞台「オルフェウ・ダ・コンセイサォン」のために制作した音楽によってであった。この時期から、ヴィニシウス・デ・モライスとともに曲つくりを始めた。
 1959年には最初のボサノバの曲となる「思いあふれる(Chega de Saudade)」をジョアン・ジルベルトがリリースした。この新しいサウンドがブラジルの若者たちの心をとらえた。1967年には「イパネマの娘(A Garota de Ipanema)」が大ヒット、また同年にはアルバム『波(Wave)』を制作。
 1994年、ニューヨークで心臓発作のため死亡。享年67歳。

A Garota de Ipanema
Agua de Marco
Desafinado
Samba de Aviäo
Chega de Saudade



Sérgio Santos Mendes(1941~)
 1941年2月11日にリオ・デ・ジャネイロ市の近郊のニテオリ町に生まれる。幼少のころからリオ市内の音楽学校でクラシック・ピアノを学ぶなど恵まれた環境で音楽の基礎を取得。1950年代後半にジャズ、そしてアントニオ・カルロス・ジョビンやジョアン・ジルベルトの影響を受けてボサノバに転向、1962年にはVisa Rio Sestetを結成、1965年には米国に活動の場を移し、ジョビンやジルベルトとともに1960年代半ばから後半にかけて巻き起こった世界的なボサノバ・ブームの推進役を果たす。
 1966年に発表した『Sergio Mendes & Brasil’66』とその中に収録されていた「Mas Que Nada」のアレンジが世界的に大ヒット、その後欧米の音楽市場にとって親しみやすいボサノバの作風をつくりボサノバを世界的な音楽ジャンルに引き上げた。

Mas Que Nada
Timeless



Joäo Gilberto(1931~)
1931年6月10日、ブラジル北東部のバイーア州ジュアゼイロに生まれる。フルネームはJoän Gilbert Prado Pereira de Oliveira。10歳頃までジュアゼイロに育つ。1946年に父親からギターを贈られバンド活動に夢中になり始める。その後、中等寄宿学校に進んだが、音楽の勉強のため退学。1949年にはラジオ番組にキャスタとして出演。19歳の時にリオ・デ・ジャネイロのボーカル・グループである「ガロットス・ダ・ルア」にリード・ヴォーカルとして参加、2枚のシングルを録音するも退団。
 1952年に初のソロ・レコード『Quando Ela Sai』を制作したがヒットせず。その後マリファナ中毒になり、1955年には姉の住むジアマンチーナに移転し、姉の家に居候し始める。その間にヴィオラン(クラシック・ギター)を弾きながら歌を歌い続け、サンバのリズムをギターだけで表現するバチーダと呼ばれる独特の奏法を発明した。  1957年にリオ・デ・ジャネイロに戻り、カルロス・ジョビンと出会い、1958年にエリゼッチ・カルドーゾのアルバム『Cansao do Amor Demais』の中の2曲にギタリストとして参加、同年7月にカルロス・ジョビンとヴィニシウス・デ・モライスによる「想いあふれて(Chaga de Saudade)」を制作、これが最初のボサノバ曲と呼ばれている。しかし、当初は話題にならなかったが、次第にリオの若者たちの間で人気を博すようになる。1959年に同名のLPを発売。
 1960年にはアストラッド・ジルベルトと結婚。1963年にスタン・ゲッツとともに『ゲッツ/ジルベルト』を制作、1964年にはアストラッドが英語で歌った「イパネマの娘」がシングルとして発売され大ヒット。ほどなくアストラッドと離婚。1965年にはグラミー賞を受賞、ミウーシャと再婚。ボサノバ退潮期の1969年にメキシコ・シティに移転、2年間を過ごす。1977年にはアルバム『Amoroso』を発表、1981年にはカエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、マリア・ベターニアとの共作で『Brasil』を制作した。2000年には『Joäo Voz e Violäo』を発表した。

Chega De Saudade
A Felicidade
Desafinado
Falsa Baiana
Un Abraco no Bonfa
Corcovado
Izaura



Carlos Lyra(1936~)
 1936年5月11日、リオ・デ・ジャネイロ市南部のボタフォゴ地区に生まれる。フルネームはCarlos Eduardo Lyra Barbosa。ホベルト・メネスカル(Roberto Menescal)とともにジョアン・ジルベルトやカルロス・ジョビンがつくりあげたスタイルに追随したミュージシャンとして知られる。その後、ナラ・レオン(Nara Leao)らとともに活動的なボサノバ・アーティストとして活動し、サンバのルーツへの回帰を追求した。
 7歳の時からピアノを学び、コレヒオ・サント・イグナシオ、コレヒオ・サン・ベントを経て、コパカバナのコレヒオ・マレ・ソアレスを卒業。マレ・ソアレス校でRoberto Menescalと知り合う。1954年に最初の曲「Cuando Chegares」を作曲。
1956年に音楽家としての活動を開始。1957年にRonaldo Boscoliと共作で作曲を開始、「Lobo Lobo」、「Se e Tarde Me Perdoa」。
 1959年にカルロスが作曲した「Maria Ninguém」、「Lobo Bobo」、「Sauddade fez um samba」を収録するアルバム『Chega de Saudade』が発売される。1960年にはVincius de Moraesの作詞で「Voce e Eu」、「Coisa Mais Linda」、「Promavera」、「Minha Namorada」を発表。
 1964年のクーデターの発生に伴って国外脱出、1971年に帰国した。1966年にメキシコに移り、同国に4年間居住した。1972年にアルバム『Eu & Elas』を発表。1974年にアルバム『Carlos Lyra』を、1975年に『Heroi do Melo』を発表。1993年に『Bossa Lyra』を、1994年に『Carioca de Algema』と『Songbook』を、1999年に『Vivendo Vinicius ao Vivo』を、2000年に『Enciclopédia Musical Brasileira』と『Milennium』を、2003年に『Coisa Mais Linda』を、2004年に『Sambanço』を、2005年に『Carlos Lyra―50Anos de Música』を発表した。

Coisa Mais Linda
Maria Moita
Minha Namorada
Maria Ninguém



Nara Leão(1942~1989)
 1942年1月19日にブラジルのEspirito Santos州のVictóriaに生まれる。「ボサノバの女神(La Musa De la Bossa Nova)」として知られる。12歳の時に父親からギターを与えられたことが音楽に関係をもつきっかけとなる。作曲家Patricio TeixeiraとギタリストのSolon Ayalaが音楽の指導者となる。1950年代終わりから1960年代初頭の青年時代からボサノバの多くのミュージシャンと知り合いになり、1963年に初めてのプロ活動としてSergio Mendesと公演に参加。1960年代半ばに軍事政権に批判的な発言が目立つようになり、またボサノバにも批判的な姿勢を示してプロテスト・ソングに傾倒するようになる。また、1968年には『Tropicalia:ou Panis et Circenses』の制作に参加。同年、パリに亡命。1970年代に音楽活動を中止、1979年に復帰して精力的に活動したが、その後持病の脳腫瘍が悪化し、1989年に死亡。享年47歳。

Folhetim
Outra Vez
Samba De Uma Nota So
Com Açucar
Nasci Para Bailar
Garota de Ipanema



Milton Nascimento(1942~)
 1942年10月26日、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ生まれ。白人の両親に養子として引き取られ、2歳の時からTres Pontas で幼年期を過ごす。19歳の時にBelo Horizonteに転住し、歌える場で歌い始める。1966年に歌手Elis ReginaがMiltonの曲「Cancao de Sal」を取り上げたことから名を知られるよういなる。1972年には作曲家であるMarcio Borges 、Fernando Brant、Ronaldo Bastosらと協力するようなりアルバム『Clube Da Esquina』を制作、その中にシングル「Cais」、「Cravo e Canela」を収録した。
 1980年代および1990年代には音楽活動を拡大、1981年にはドイツ人映画監督Wremer Herzogの作品『Fitzcarraldo』に出演。1984年にBelo Horizonteで開催したコンサートに15万人の観客を動員。2012年にはDVD『Milton Nascimento ---50 Anos de Voz Nas Estradas』を制作。

Cancao de Sal
Cais
Cravo e Canela



Elis Regina(1954~1982)
 1945年3月17日にPorto Alegreに生まれる。11歳の時にラジオ番組で音楽活動を開始。1959年にRádio Gaúchaと契約してリオ・デ・ジャネイロに転出し、デビュー・アルバム『Viva a Brotolándia』を制作2枚目のアルバム『Dois Na Bossa』がヒット。
 1960年末から1970年代初頭にトロピカリア運動を支援。Gilberto Gilと種々の曲で共演。1960年代末から軍事政権を厳しく批判、1969年には「ゴリラ」と表現。軍事政権はElisの知名度のために抑圧できなかったが、公の場で国歌を歌うことを強要。1974年にはTom Jobimとアルバム『Elis & Tom,』を共作。1982年1月19日に麻薬・精神安定剤・アルコールの過剰摂取が原因で死亡。享年36歳。軍事政権に暗殺されたとの説もある。

Águas de Março
O Bêbado e A Equilibrista
Dois Pra Lá, Dois Pra Cá
Zazueira



Maysa Matarazzo(1936~1977)
 1936年6月6日、Sáo Paulo もしくは Río de Janeiro生まれ。本名はMaysa Figueroa Monjardim。Maysa Matarazzoとして知られる。1947年に一家はサンパウロ州のBauruに定住。数回にわたってEspíritsu Santo知事となったBarón de Monjardimの孫。17歳の時にイタリア系の企業家André Matarazzoと結婚。1957年に夫がMaysaの音楽活動に否定的であったことが原因で離婚。
 1956年にプロデューサーのRoberto Corte-Realnnに誘われてアルバム『Convite Para Ouver Maysa』を発表しヒット。1957年には2枚目のアルバム『Maysa』を制作。1958年にはリオ・デ・ジャネイロに移動し、3枚目のアルバム『Convite Para Ouver Maysa II』を制作、シングル「Meu Mundo Caiu 」がヒット。1960年代にはボサノバ運動に参加。1961年に米国でアルバム『Maysa Sings Songs Before Dawn』を制作。
 1969年にスペイン人Miguel Azanzaと別れてブラジルに帰国。1970年にアルバム『Ando So Numa Multidâo』を制作、1971年にはテレビ・ドラマ『O Cafona de la Rede Globo』と『Bel-Ami』に出演。1972年末に芸術界から離脱、Maricá県の海岸地帯で恋人の俳優Carlos Albeと晩年まで過ごす。1977年1月22日に死亡。享年40歳。

Meu Mundo Caiu
Ne Me Quitte Pas
Meu Mundo Caiu



Vinícius de Moraes(1913~1980)
 1913年10月19日にリオ・デ・ジャネイロに生まれる。幼年期から詩を書き始め、14歳の時にPauloとHaroldo Tapajósと知り合い、Haroldoとともに「Loura ou Loura」を作曲。1929年にリオ・デ・ジャネイロで法律を勉強し、1932年からTapajos兄弟によって歌われた10曲の歌詞を執筆。1943年にはブラジル外交団に参加、また著書『Cinco Elegías 』を発表。1946年にロザンゼルスに副領事として赴任。1950年代初めにブラジルに記憶しサンバの曲「Quando Tu Passas Por Mim」を作曲。1953年には在フランス大使館二等書記官として赴任。1959年に映画『黒いオルフェ』に協力。
 その頃からAntonio Carlos Jobimとの交友を始め、またJoáo Gilbertoとも協力、「ボサノバ」運動を開始。1958年にElizeth Cardosoがアルバム『Cançao do Amor Demais』を発表して「ボサノバ」が開始される。1966年にはToquinhoとの協力で、「Para Uma Menina Com Uma Flor」、「Samba Da Béncao」を収録したアルバム『Un Homme et une Femme』を制作。

Garota de Ipanema
Canto De Ossanha/a>
Escravo Da Alegria
A Tonga Da Mironga Do Kabulté



Toquinho(1946~)
 1946年7月6日、サンパウロに生まれる。14歳の時からギター奏者であるPaulinho Noguiraに導かれてギターを弾き始め、その後Edgard Janulo、Osacar Castro Nievesの指導を受け、最終的にはBaden Powellのスタイルを取り入れる一方で、Isaías Sávioから古典ギターを学ぶ。1960年代にはElis Regin、Chico Buarque、Zimbo Trio、Señales De Valle、 Tayguara、Ivete、Tuca、Cuña de Geraldoら多くのミュージシャンと協力。
 1970年にVinícius de MoralesがMaría Creuzaと働くことを勧め、それ以来Viniciusとの関係は11年間に及ぶ。これまでに120曲を共作し、25枚のアルバム、コンサートも1000回以上共演している。1980年(Viníciusが亡くなった年)には最後の共作となった「Um Pouco de Ilusao」を制作した。
 他方、1971年にはGianfrancesco Guarmieriと「Castro Alves Pede Passagem」、「Um Grito Parado No Ar」、「Botequim」を共作し、アルバム『Botiquín』を制作した。1976年にはイタリアでギター・ソロのアルバム『Toquinho:il Brasile Nella Chitarra』を制作、1977年にはアルバム『Toquinho Tocando』と1978年には『Toquinho Cantando』を発表、1979年にアルバム『Dez Anos de Toquinho e Vinícius』を発表。
 1983年にアルバム『Aquarela Para Ariola』を制作、1984年には『Sonho Dourado』を制作、1990年には42枚目のアルバム『A la Sombra de Un Jetobá』を発表。1995年に『Toquinho 30 Años de Música』を、1997年には『Herdeiros do Futuro』を制作。1999年にはサンレモ音楽祭で審査員を務めた。

Como Dizia o Poeta
Per Vivere un Grande Amore
Aquarela



Tom Zé(1936~)
 1936年10月11日、ブラジルのバイア州Iraráに生まれる。その後、サルバドル市に転住、1960年代にテレビのアマチュア音楽番組で演奏するようになり、バイア連邦大学音楽学校に入学。その時期に、Caetano Veloso、Gilberto Gil、Gal Costa、 Maria Bethaniaなどのトロピカリア運動のミュージシャンと交友を持ち、1968年にはトロピカリア運動のマニフェストとも言うべき『Tropicália ou panis et Circensis』の制作に参加。同年、第4回ブラジル音楽フェスティバルで「Sao,Sao Paulo,Meu Amor」で入賞。
1970年代から1980年代には体験的なポップ概念の開発を行ったが注目は集めず。1980年代末にイギリス人音楽家David Byrneに「再発見」され、2巻のアルバム『Tom Zé』を制作。1998年にはアルバム『Com Defeito de Fabricacao』を制作。

Dor e Dor
Curiosidade
O Amor é Um Rock
Todos Os Olhos



Dorival Caymmi(1914~2008)
 1914年4月30日、ブラジルのSalvador de Bahía近郊の漁村Iapuaでイタリア系移民家庭に生まれる。幼年期に教会のコーラス隊に参加。13歳の時に学業を中断。20歳の時にバイアのラジオ曲で歌い始め、1936年にカーニバルの音楽大会で優勝した。1938年にリオ・デ・ジャネイロに転住、音楽活動を本格化。1939年に映画『Banana da Terra』に挿入された「O Qué É Que a Baiana Tem?」が好評を得る。1940年代後半には絵画に専念。1947年にサンバを基調とした「Marina」を制作。
 1954年から55年にアルバム『Cançoes Prieiras』と『Sambas de Caymmi』を制作。1950年代末のボサノバ登場とともにCaymmiの名も高まる。Caymmiの曲である「Doralice」、「Samba de MinhaTierra」もAntonio carlosJobimやJoao Gilbertoによって歌われた。1968年、バイア州政府がSalvadorに家を一軒贈呈、一時Salvadorに滞在。1972年に「Oraçao de Mae Menininha」を制作。1975年には「Gabriela」を制作、2008年8月16日に死亡。享年94歳。

O Qué É Que a Baiana Tem?
Dora
Samba Da Minha Terra
Canto de Obá



Baden Powell(1937~2000)
 1937年8月6日、リオ・デ・ジャネイロ生まれ。本名はBaden Powell de Aquimno。 15差の頃から有名ミュジシャンのための伴奏でギターを演奏。青年期にはスウィングやジャズに関心を示すが、基本はブラジル・ギターであった。1955年にPowellはLuiz Marinho、Calaudette SoaresとともにOrquesta Steve Bernard で演奏してジャッズのimprovisacionesで知名度を高める。1959年には作曲家のBilly Blancoに歌詞を依頼した「Samba Trsite」が大ヒット。
1962年にVinicius de Moraesと連携して、「Candombié」、「Umbanda」、「Capoeira」のようなアフロ=ブラジル系の音楽を確立。1966年にこれらの曲を収録したアルバム『Os Afro-Sambas de Baden e Vinicius』を発表。同年にアルバム『Tirsteza en Guitarra』を制作。1968年には詩人のPaulo Cesar Pinheuroと協力してアフロ=ブラジル的な『Os Cantores da Lapinha』を制作。
2000年9月26日に糖尿病に発した肺炎が原因で死亡。享年63歳。

Samba Triste
Manha de Carnaval
Valsa Sem Nome



Paulino da Costa(1948~)
 1948年5月31日、リオ・デ・ジャネイロ生まれ。パーカッション奏者。約200種のパーカッションを演奏。演奏ジャンルはブラジル伝統音楽、ブルース、キリスト教音楽、カウントリー、ヒップホップ、ジャズ、ラテン・ミュージック、R&B,ロック、ソウルに及ぶ。

Simbora
Happy People
You've Got a Special Kind of Love



Zimbo Trio(1964年結成)
 1964年3月17日にサンパウロにて歌手のNorma Bengellが出演したコンサートでAmilton Godoy、Luis Chaves、Rubinho Barsottiの3人が演奏して結成されたボサノバ・バンド。同日、Baden PowellとVinicius de Moraesの「Consolaçao」を演奏。1965年にテレビ番組『O Fino da Bossa』の正式バンドに就任。
 2007年にLuiz Chanesが死亡、Itamar Collaçoが加入したが、2010年にMario Andreottiが交代。現状では、Amilton、MarioとPersio Sapiaの3人で構成。1964年以来、45枚のアルバムを制作・発表。

Zimbo Samba
Poliedro
Bebê



Marcos Valle(1943~)
 1943年9月14日、リオ・デ・ジャネイロ生まれ。ボサノバとサンバの歌手・ギター奏者、作曲家。幼年時代からクラシック音楽を学んだが、徐々にジャズに傾倒。  1960年代初頭に兄のPaulo Sérgioとともに作曲を開始。最初のヒット曲は「Sonho de Maria」。1964年にデビュー・アルバム『Samba Demais』を制作。1965年にはSergio Mendes &Brajilとともに海外公演、米国で「Valle So Nice」がヒット。1967年にはWarner Brothersと契約してアルバム『Braziliance!』を発表。1968年にはSamba ‘68に出演し、「Batucada」、「Chup,Chup」、「I Got Away」、「Crickets Sing for Anamaria」が好評を博す。
 1968年にアルバム『Viola Enluarada』が南米でヒット。トロピカリア運動のミュージシャンの影響を受け、1971年にはアルバム『Garra』を制作、ロックやファンクへの接近を示す。1975年に米国に渡って音楽活動を継続。1980年代にはソロ活動を展開し、また映画やテレビドラマでも活躍した。

Samba Fatal
Estrelar
Viola Enluarada
Nova Bossa Nova



Paula Morelenbaum(1962~)
 1962年7月31日、リオ・デ・ジャネイロ生まれ。夫であるJaques Morelenbaumとともに、1984年から1994年までAntonio carlos Jobimのバンドに参加。Jobimnoアルバム『Passarim』、『Antonio Brazileiro』、『Tom Canta Vinicius』の作成に参加。夫JaquesとJobimの息子と孫であるPauloとダニエルとともにクアルテットを形成。
 1980年代初頭にはボーカル・グループの「Céu da Boca」に参加、またその後Morelenbaum/Sakamotoトリオを形成。2004年には「Berimbau」と称するVinicius de Moraes追悼の曲を制作、2008年にはブラジル音楽の古典的な曲をアレンジしたアルバム『Telecoteco』を制作した。

Paula Morelenbaum
Consolação
É Preciso Perdoar



Emilio Santiago(1946~2013)
1946年12月6日、リオ・デ・ジャネイロに生まれる。1970年代に大学で法律学を学ぶかたわら、大学のフェスティバルで歌うようになり、その後テレビ番組にも出演。Ed Lincoln楽団で働くようになる。2013年3月20日に脳溢血で1カ月の入院後に死亡。享年66歳。

Bananeira
Flamboyant
Essa Fase Do Amor



Dori Caymmi(1943~)
 1943年8月26日、Salvador de Bahía州生まれ。本名はDorival Tostes Caymmi。歌手・作曲家。両親は共にミュージシャンのDorival CaymmiとStella Maris。Danilo CaymmiとNana Caymmiは兄妹。1980年代末からロサンジェルスに居住。1960年代から音楽活動を開始したが、ボサノバから強い影響を受ける。代表曲は「Influencias」、「Contemporaneos」。共にグラミー賞にノミネートされた。Paulo César Pinheiroとの連携で名曲「Saudade de Amar」を制作。また、サンバの「パラCaymmi 90 Anos」を発表。

Spring
Rio Amazonas
Migration



Paulinho da Viola(1942~)
 1942年、リオ・デ・ジャネイロ生まれ。本名はPaulo César Batista de Faria。著名なギター奏者であるCésar Fariaの孫。リオ市内南部の伝統的な街区であるBotafogoで過ごした幼年期にÉpoca de Ouro楽団のメンバーであった父親を通して音楽に接し、同楽団のJaco do BandolimやPixinguinahaと知り合った。1970年代には平均的に毎年1枚ずつアルバムを発表するようになり、ブラジル各地で公演するようになる。1980年代には4枚のアルバムを制作し、ブラジルのサンバ界の大御所としての地位を保った。1990年年代にはアルバム『Bebadosamba』や『El especyáclo Homónimo』を発表した。現在もブラジルの大衆的音楽であるサンバ、カーニバル、チョロ(Choro)を結ぶ軸と評価されている。

Cochichando
Foi Um Rio Que Passou Em Minha Vida
Ame