ラテンジャズ


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Stan Getz(1927~1991)
1927年2月2日に米国のフィラデルフィアに生まれる。ウクライナ系ユダヤ人の家系。通称は「The Sound」。4歳の頃家族がニューヨークに移転しブロンクス街に居住。ユダヤ系として蔑まれたので強い性格に育ったと言われる。13歳の時にサックス奏者になる意思を固めた。
 1946年までにDick “Stinky”RogersやBenny Goodmanのバンドで演奏。19歳の時にロサンゼルスに旅しDexter GordonやWarden Grayの低音サックスに魅せられた。1947年にTony de Carloのバンドと働くようになる。1948年にソロ・アルバム『Early Autumn』を制作。1952年にはNorman Granzと協力を開始。1950年代にはHorace Silver やOscar Petersonとクインテットを結成。1955年に「West Coast Jazz」を制作。しかし、麻薬中毒に陥り、1964年に注射用のモルヒネを求めてシアトルの薬局を襲って逮捕され、ロサンゼルス郡南カルフォルニア大学医療センターに収容された。ヘロイン中毒で実刑判決を受け、半年間の服役生活を経た後に、北欧に旅し、スウェーデンに移住して、民謡を題材とした作品を制作するなどジャズから離れた。
1961年に米国に帰国。アルバム『Focus』を発表して復活。1962年にはカルロス・ジョビンの影響で『Jazz Samba』を制作。ジョビン、ジョアン・ジルベルト、アストリッド・ジルベルトとの協力関量を強め、『Getz/Gilberto』を制作し、収録されていた「イパネマの娘」が大ヒット。1964年には『Getz/Gilberto#2』を」発表。
1967年以後はJazz-Rockや他の諸傾向との融合に関心を示す。1988年に肝臓癌を発病。1991年6月6日に死亡。享年64歳。 

East Of The Sun (And West Of The Moon)
One Note Samba
Stan Getz Plays



Astrud Gilberto(1940~)
1940年3月29日にブラジル北東部のバイーア州でドイツ人を父にブラジル人を母に生まれ、リオ・デ・ジャネイロで育つ。
1959年にジョアン・ジルベルトと結婚。1963年に二人は米国に移住し、スタン・ゲッツとともにアルバム『ゲッツ/ジルベルト』を制作。アストラッドが初めてプロ歌手として歌ったのはこの時が初めてであった。プロジューサーのクリード・テイラーがアストラッドの声に目をつけ、彼女が英語で歌う「イパネマの娘」をレコーディングし大ヒット作となる。その後、アストラッドはジョアン・ジルベルトと離婚。
「イパネマの娘」のブレークによりアストランドはジャズスターとなり、ソロ・デビューし、ボサノバとジャズ・スタンダードの架け橋的な役割を果たす。1964年にはスタン・ゲッツとの共演で『Gets Au-Go-Go』、1965年に『The Astrud Gilbert Album』と『The Shadow of Your Smile』、1966年に『Look to the Rainbow』、1967年にはワルター・ワンドレイとの共演で『A Certain Smile, a Certain Sadness』と『Beach Samba』、1968年には『Windy』、1969年には『I Haven’t Got Anything Better to Do』と『September 17, 1969』、『Gilbert Golden Japanese Album』を発表。
1970年代には自ら作曲しレコーディングする活動も開始。1971年にはスタンリー・タレンタインとの共演で『Gilbert With Tarrentine』、1972年には『Astrud Gilbert Npw』、1977年には『That Gairl From Ipanema』、1996年には『Live in New York』、1997年には『Temperance』、2002年には『Jungle』を発表した。
しかし、ブラジル国内ではほとんど実績を残しておらず、同国内では評価も高くない。

The Girl From Ipanema
The Shadow of Your Smile



Mongo Santamaría(1922~2003)
  1922年4月7日にキューバのハバナに生まれる。ラテン・ジャズで知られる。パーカッション奏者。幼少の頃よりアフロ・キューバ系のリズムに親しむ。1940年代にはコンガ奏者として知られるようになる。1948年にニューヨークに移転し、Pérez Pradoのバンドを始め多くのバンドで演奏。しかし、不運な事故が原因で入院生活を送り、また麻薬に浸かるようになる。回復後、Tito Puenteに1958年まで協力し、その間多くの録音残した。Puente との決別後は、Willie BoboやCal Tjaderとカリフォルニア州で働き、その間にボサノバとの接点を持つようになった。

Sabroso!
Afro Blue
Watermelon Man
Summertime



Willie Bobo(1934~1983)
 1934年2月28日、ニューヨークのヒスパニック・ハーレム生まれ。ラテン・ジャズ、特にアフロキューバン・ジャズで知られる。ティンパニー奏者。19歳の時にティト・プエンテのグループに入り、4年間過ごす。11950年代にジャズ・ピアニストのMary Lou WiiliamsがBoboと名づける。
 George Shearingのバンドと出会い、「The Shearing Spell」がヒット。1950年代末のマンボ全盛期にCal TjaderがBoboとSantamaríaにCal Tjader Mambo Quintetに参加するよう求め多くの曲を残す。1960年代には]Santamaríaと共作した「Sabroso!」がヒット。
 1970年代初めにはロサンゼルスに転居し、旧友のRichard Sanchezとその息子Richard Jr.と協力して音楽活動を実施。また、カルロス・サンタナにも協力。1983年9月15日、健康を害して死亡。享年49歳。

Palos
Michelle
Boroquinho
Haitian Lady



Tito Puente(1923~2000)
 1923年4月20日にプエルトリコ系を両親にニューヨークのハーレムに生まれる。パーカッシン奏者。幼児よりピアノを学び、次にパーカッションを学ぶ。15歳の時にマイアミのNoro Moralesのバンドに入り、ピアノの勉強をし直す。キューバ人のバンドでも働き始めた。
 1947年もしくは1949年に自らのバンド“The Picadelly Boys”を結成。Cubotop呼ばれたラテン・ジャズを演奏し始める。協力者にはDizzy Gillespie、Ben WebsterMiles Davis、Thad] Jones、Count Basie、Duke Ellington。1950年代に人気は絶頂に達し、」キューバのマンボ、ソン、チャチャチャが流行した。1958年にはアルバム『Dance Mania』を発表。その後、ポップ、ボサノバ、を含む多くの音楽ジャンルをアフロ・キューバン・ジャズに融合させ、後に1960年代サルサに組みすることになる。1970年代には再びラテン・ジャズに復帰し、多数のアルバムを発表した。1988年には映画『Salsa』に出演、また1992年にはCelia Cruzとともに映画『The Mambo Kings』に出演。さらに、Fernando Trueba監督の『Calle 54』にも出演してラテンジャズ曲の「New Arrival」を演奏した。2000年5月31日にニューヨークで死亡。享年77歳。

Salve Pa' Ti
Mambo Birdland
Dance Mania
El Rey Del Timbal
Quinbo Quinmbumbia



Eddie Palmieri(1936~)
 1936年12月15日にニューヨークのブロンクスに生まれる。両親はイタリア・コルシカ出身のプエルトリコ系。8歳の時から兄チャーリーとともにピアノを始める。14歳の時に自分のバンドをブロンクスの仲間と結成。19歳でプロのピアニストになり、1950年代にはTitoRodríguez、Johnny Segui、VicencioValdezなどのバンドに登場した。
 1961年にトランペッター奏者のBarry Rogers、ボーカルのIsamael Quintanaと独自のバンド「Conjunto El Perfecta」を結成。「Lo que Traigo es Sabroso」などを発表。1971年には「Vamos pa’lMonte」を制作。
 1974年には新たなボーカルLalo Ridriguezを招いて録音した「The Sun of Latin Music」がグラミー賞を受賞。1981年には『Album Blanco de Palmieri』を制作。1983年には『Palo pa’Rumba』で、1985年には『Solito』で2度にわたってグラミー賞を受賞。1987年にはサルサ歌手Tony Vegaとともにアルバム『La Verdad』を制作。 サルサに続いてラテン・ジャズを継続し、1992年には『Llegó La India,vía Palmieri』を制作、1998年にはサルサの『El Rumbero del Piano』を発表。2000年にはTitoPunteとの共作『Masterpiece』を発表。
 Palmieriは、「El Emperador de la Salsa」、「El Molestoso」、「El Romopeteclas」、「El Sol de Música Latina」の異名を持つ。2013年米国ジャズの最高峰の賞である「NEA Jazz Master」を受賞。

Spirit Of Love
Lo que Traigo es Sabroso
Palo Pa’Rumba
Vamos Pa'l Monte



Michel Camilo(1954~)
 1954年4月4日にドミニカ共和国の首都サンドドミンゴに生まれる。6歳の時に作曲を始め。ラサール校で13年間医学を学び、その後国立音楽学校でも学び、16歳の時にドミニカ交響楽団のメンバーになる。1979年にニューヨークに移り、音楽を学び続ける。
 カリブ的なリズムとジャズを絡み合わせた曲風を持つピアニストとして成功し、1993年には彼が作曲した曲「Why Not!」がPaquito D’Riveraが録音しグラミー賞を受賞したたアルバムに収録された。2枚目のアルバムは『Suntan/Michel Camilo in Trio』を制作した。
 Camiloは1985年にカーネギー・ホールでデビューし、1988年にはSonyから『Michel Camilo』を発表。次に『On Air』を制作。1991年には再びカーネギーホールで上演し、1992年にはロンドン・フィルハーモニ楽団の依頼で「Rhapsody for Two Painos and Orquestra」を作曲、1993年にはアルバム『Rendezvous』を制作、同年ニューポート・ジャズ・フェスティバル40周年記念でのホワイト・ハウスに招待され「All-Star Gala」を演奏した。
 1994年にドミニ共和国のカサンティアゴ大学から名誉教授号を授与された。同年スペイン映画『Los Peore Años de Nuestra Vida』(Emilio Martínez-Lázaro監督)の音楽を担当、またアルバム『One Morezaro Once』を発表。
 2000年にフラメンコ・ギターとピアノのデュエットの演奏であるアルバム『Michel Camilo & Tomatito-SPAIN』が優秀ラテンジャズ・アルバムとしてグラミー賞を受賞、またボストンのバークリー音楽学院から博士号を授与された。2006年にはアルバム『Spain Again』を制作。2008年にはPedro Henríquez Ureña大学から、2010年にはサント・ドミンゴ自治大学からそれぞれ名誉博士号を取得。ジャズやクラシックに多大な影響を有する。

Chan Chan
Mano a Mano
Calle 54
Why Not!



Paquito D’Rivera(1948~)
 1948年6月4日、キューバのハバナ州のマリアナオ地区に生まれる。父親はサクソフォン奏者でオーケストラ指揮者でキューバ人のTito D’Rivera。5歳の時に音楽を学び始め、7歳で公演し始めるようになる。1958年、10歳の時にハバナの国立劇場で公演を行った。12歳でハバナ音楽学校に入学、1969年に19歳でキューバ国立交響楽団のソロ奏者として知られるようになった。その後、モダーン音楽楽団の8人の音楽家や他の3人とともに「Irakere」を結成、ジャズ、ロックキューバ伝統音楽、クラシッをク融合した新しいスタイルを確立した。1979年と1980年には種々のグラミー賞を受賞。
 1981年、スペインへの公演中に米国大使館に亡命を求め、マイアミでDizzy Gillespie、David Amram、Mario Bauza、Bruce Lundvallらの支援を得て、ジャズ界で敬意を受ける。  1980年代にはDizzy Gillespieと協力し、1988年にはUnites Nations Orquestraを結成。また、他のグループとも協力し、PaquitoD’Rivera Big Band、Paquito D’Rivera Quintetなどを結成してジャズを演奏。また、Gerald Danovich Saxophone Quartet等の他のグループのために作曲も手がける。著名な曲には「Gran Danzon」、「Panamericana Suite」がある。
 2000年にはスペインで回想録『Mi Vida Saxual』(Guillermo Cabrera Infanteがプロローグを執筆)を発表。また小説キューバの1950~50年代を描いた『Oh! La Habana』を発表。現在、ニュージャージー州ノースバーゲンに妻で歌手のBrebda Felicianoとともに居住。

Gran Danzon
Panamericana Suite
Return to Ipanema
Seresta
Mariel



Irakere
 1967年に結成されたキューバのジャズ・バンド。1972年に現在の形になり、197年に「Irakere」(ヨルバ語で「植生」の意)と名付けられた。アフロキューバンな音楽 的根源に基礎を置く。クラシック、ジャズ、ロック等の結合、混合、相互連関し音楽性を有する。Balá、Abacuá、Güiro、Arará、Chequerés、Erikundis、Maracas、Claves、Cencerros、Bongó、Tumbadoras等の多種のタンボールを楽器として使用し、キューバ的なリズムを創造。これにソロやコーラスのボーカルが加わる。
Irakereには多くのミュージシャンが属したが、Armando Cuervo(パーカッション)、Fran Padilla(同右)、Chuco Valdés(ピアノ)、Jorge Alfonso “El Niño“(コンガ)、Enrique Plá(バテリー)、Carlos del Puerto、Jorge Varona、Arturo Sandoval、Juan Munguía、Manuel Machado、Adalberto Lara(トランペット)、Carlos Averhoff(テノール・サックス)、Paquito D‘Rivera(アルト・サックス)、Germán Velazco、José Luis Cartés(バリトン・サックス)Orlando Valle Maraca(フルート)、Emilio Morales(ギター) 、César López(サックス)らが属した。

Cuba Libre
No Quiero Confusion
Dile A Catalina
Concierto Para Metales



Cándido Camero(1921年~)
 1921年4月22日、キューバのハバナ生まれ。アフロキューバン・ジャズのパーカッション奏者。4歳の時からボンゴを叩き始め、その後父親から「トレス」(キューバの3弦ギター)を教えられ、後にRamón “Mongo”SantamaríaやLuciano”Chano”Pozoらと共演する基盤を形成。14歳の時にデビューを果たし、1946年25歳の時で米国に渡航してBilly Taylorと共演し始め、1940年代からハバナのバンドでジャズを演奏してコンガを叩いていたが、1950年代初めには米国でDizzy Gillespieと協働し、またStan Kentonのバンドでソロ奏者として活動。この時期からコンガを2~3基同時に扱うスタイルを確立した。舞台演奏では、Machito、Count Basie、Duke Ellington、Lionel Hampton、Charrie Parkaer、Fania All Stars、Quincy Jones、Celia Cruz、Tito Puente、Mongo Santamaría等々と共演。

Dancin’ and Prancin’
Manteca
Jingo
Blue Prelude



Bebo Valdéz(1918~2013)
 1918年10月9日、キューバのQuivicán生まれ。本名はDionisio Ramón Emilio Valdéz Amaro。アフロ・キューバ系ピアニストであるCucho Valdéz(1941~)の父親。1931年から1935年まで郷里でMoraima Goonzálezの指導でピアノを習い、同時にOscar Bofartigueから作曲を学んだ。1938年にはHappy D’Ulacia楽団でデビューを行い、1940年代からハバナでUlacia楽団でGarcía CurbeloやJulio Cuevaとともに演奏し、また1948年から1957年にはキャバレーのTroopicana楽団でRita Montanerのピアニスト・編曲者として働いた。1957年にXiomara AlfaroやPío Leyvaの音楽活動のための編曲をPeer International Music PublishersのErnesto Rocaと契約。楽団Sabor de Ciubaを結成してReinaldo Henríquez、Orlando Guerra、Pío Leyva、Ada Rexらと共演。
 キューバ革命実現後は革命政府と相いれず、1960年に妻Pilar Valdézや(Cuchoを含む)5人の子供を残してメキシコに脱出、その後ロサンゼルスに移動。1963年にスウェーデンに定住。同国のキューバ音楽の楽団であるHatueyに勤務、同地で再婚。
 1994年11月、30年ぶりにPaquito D’Riveraからドイツでアルバムを発表するする誘いを受け、76歳でアルバム『Bebo Rides Againn』を制作。Fernando Trueba監督の映画『Calle 54』に出演。2002年には同監督が制作した映画『Lágrimas Negras』に出演。2004年には同監督の作品『El Miragro de Candeal』に出演するためブラジルのサルバドルに出張。その後、スペインのマラガ地方の町Benalmádenaに引退。2013年3月22日にストックホルムで死亡。享年84歳。

A Mayra
A Quién Engañas
Batanga Tú Bailas
Con Poco Coco
Tirando Tiro



Chico O’Farrill(1921~2001)
1921年10月28日、キューバのハバナ生まれ。本名はArturo O’Farrill。アフロ・キューバ系ジャズのトランペット奏者・編曲者。別名「アフロ・キューバン・ジャズの建築家」。米国ジョージア州の軍事アカデミーに在籍していた時にトランペットの演奏を学び、キューバ帰国後に音楽を大学で正式に学ぶ。1946年にArmando Oréficheのハバナ・キューバン・ボーイズとともにヨーロッパ公演を行い、帰国後学業を放棄してニューヨーク渡航を決意。Benny Goodmanと出会いまで下積み生活を送る。1950年にMachitoの楽団とともに「Afro Cunban Jazz Suite」を制作、Charlie Parker やFlip Phillipsらがソロ奏者として参加。1952年には「Second Agro-Cuban Jazz Suite」を、1954年には「Manteca」、1959年に「Suite Azteca」等を制作。1956年にキューバに戻り、「Chico’s Cha-Cha-Cha」を制作。1950年代末、メキシコに渡り、1960年代には米国に転住、Count Basie、Gato Barbieri、Ringo Star、David Bowieなど大物音楽家の編曲に従事。2001年6月27日にニューヨークで死亡。享年79歳。

Havana Blues
Carambola
Almendra
Afro Cuban Jazz Suite



Chano Pozo(1915~1948)
 1915年1月7日、キューバのハバナ生まれ。本名はLuciano Pozo González。アフロ・キューバン・ジャズとソン・モントゥノのパーカッション奏者。靴磨きや新聞売りをしながら音楽を演奏し、ダンスを踊るようになる。儀式的なタンボル演奏の秘密集団であるAbakuáに所属。AbakásやYoruba族のコンガを演奏する技術を持つ。
 1942年にニューヨークに渡り、Machitoの楽団に所属、その後シカゴのJack Cole Dancers楽団に移籍。1947年に「Manteca」がヒット。また、「Caliente」もヒット。アフロ・キューバ系リズムとジャズの融合に成功。
 1948年、ニューヨークに彼が作曲した曲に因んだ名称のラテン・クラブ“Blen Blen”を開店。同年12月3日、ニューヨーク市内のハーレムにあるバーで、仲買人が渡した偽のマリファナを吸って中毒死。享年33歳。Beny Moréが追悼歌「Rumberos de Ayer」を作曲、「Oh,Oh Chano,Murió Chano Pozo/Sin Chano Yo No Quiero Bailar」と歌う。

Manteca
Amparame



Chuco Valdéz (1941年~)
 1941年10月9日、キューバのQuivicán生まれ。本名はDionisio Jesús Valdés Rodríguez。アフロ・キューバン・ジャズのピアニスト。Irakereの創設者。両親が音楽関係者であったため幼少期から自宅で音楽教育を受け、3歳からピアノを弾き始める。5歳の時にOscar Muñoz Boufartiqueから正式な音楽教育を受け、ハバナ音楽学校を14歳で卒業。その後、Zenaida RomeuやRosario Franco、Federico Smith、Leo Brouwerから私的授業を受ける。
15歳の時にEmilio del MonteとLuis Rodrñiguezとともにジャズ・トリオを結成、1958年12月にはハバナのDeauville HotelやSt.John Hotelでピアニストとして働き始める。1959年に父親が指揮するSabor de Cuba楽団でデビューを果たす。
 1961年から1963年にはTeatro Martí、Hotel Habana Riviera、ハバナ音楽劇場でピアニストして働く。同年Leo Brouderの勧めで、Amado Borceláに呼びかけるなどしてIrakereの結成に向けた道を歩み始める。1967年にキューバ現代音楽楽団に入りArmando Romeu,Rafael Somavillaの下で楽団の指揮を学ぶ。Quintetoの形でコンボを組むことを考え始め、1970年にポーランドのJamboreeで開催された国際ジャズフェスティバルに出演、キューバを代表するジャズ・バンドとして評価されると同時に、Bill Evans、Oscar Peterson、Herbie Hancock 、Chick Coreaとともに世界の5人のジャズ・ピアニストの一人として評価された。1972年にアルバム『Jazz Batá』を発表した後、19773年に“Irakere”を結成。“Irakere”を通じて『Misa Negra』、『Shaka Zulu』のような記念碑的な作品を創造。
 1998年にcuartetoの形式とボーカルMayra Caridad Valdésを得て、2009年には“Cucho Valdés y los Afro’-Cuban Messengers”を結成。2012年にはアルバム『Border-Free』を制作。ハバナ高等芸術学院教授。

Rhapsody In Blue
El Día Que Me Quieras
Claudia
Santa Cruz



Flora Purim(1942年~)
 1942年3月6日、リオ・デ・ジャネイロ生まれ。ブラジルのジャズ・ロック歌手。Chick Coreaの『Retuen to Forever』に参加してから知名度を得る。Stanley Clarke、 Dizzy Gillespie、Gil Evans、Stan Gets、Grateful Dead 、Santana等のアーティストと共作・共演作品を持つ。

Butterfly Dreams
Stories to Tell
Nothing Will Be as It Was
Open Your Eyes



Arturo Sandoval(1949年~)
 1949年11月6日、キューバのアルテミサ生まれ。キューバン・ジャズのトランペット・ピアノ奏者。13歳の時から音楽を学び、トランペットを選ぶ。Paquito D’RiveraやChuco ValdésとともにIrakereの結成に協力。1978年ニューヨークで開催されたニューポート・ジャズ・フェスティバルをきっかけにキューバを出国、マイアミに定住して、フロリダ国際大学で教鞭をとる一方で、亡命後の1作目の作品「Flight to Freedom」を発表。

A Night In Tunisia
Funky Cha Cha
Red Moon
Romantico
Let's Stay Together



Horacio Hernández(1963年~)
 1963年4月24日、キューバのハバナ生まれ。Horacio “El Negro” Hernándezmの名で知られる。Arturo SandovalやPaquito D’Riveraらに続く次世代のジャズ・ミュージシャン。ドラムとパーカッション奏者。Roberto Rubalcabaのグループ“Proyecto”のドラム奏者として名を知られたが1990年にキューバを出国。米国にてジャズ、ラテン・ジャズ、ロック、ポップスを演奏。1997年にRoy Hargroveのアルバム『Havana』、1999年にカルロス・サンタナのアルバム『Supernatura』、2003年にAlejandro Sanzのアルバム『No Es Lo Mismo』、2005年にEddie Palmieriのアルバム『Listen Here』の制作に参加。

Free Latin
Puerto Rico
Tropical Madrid
Te Prima



Gonzalo Rubalcaba(1963年~)
 1963年5月27日、キューバのハバナ生まれ。本名はJulio Gonzalo González Fonseca。アフロ・キューバン・ジャズのピアニスト・作曲家。音楽家家庭に生まれ、Manuel Saumell音楽学校、Amado Rodán音楽学校で学ぶ。また、Ñola Sahigからも教えを受け、高等芸術学院ではRoberto ValeraやCarlos Fariñasから作曲を学ぶ。
 14歳の時からBeatriz Márquezらと楽団で共演するようになり、1978年には自分の楽団“Proyecto”を結成。1980年にはコロンビアのBugaで開催された国際フェスティバルにBeatrizとともに出場して優勝。1980年代前半には「Nueva Cubana」、「Pisando el Césped」、「Pergamin」、「Rapsodia Española」の曲を制作し1984年にはアルバム『La Nueva Cubana』、1986年にはアルバム『Concatenación I』、『 Concatebnación II』を発表。1986年にPlazaでのフェスティバルでDizzy Gilespieと懇意になり、『Gellespie En Vivo Con Gonzalo Rubalcaba』を発表、同年ドイツのMessidor社と契約して同年には『Rebalcaba』、『Live In Havana』、1987年に『Mi Gran Pasión』、1989年に『Giraldilla』を発表。
 1992年にはドミニカ共和国に居を移し、海外公演に傾注し、10年間にアルバムを10枚発表した。2002年には『Supernova』でグラミー・ラテン賞を受賞、200年には『Solo』再びグラミー・ラテン賞を受賞。

Besame Mucho
Mi Gran Pasión
Rapsodia Cubana
Giant Steps
Nocturnal



Machito(1912~1984)
 1912年2月16日、キューバのハバナ生まれ。本名はFrancisco Raúl Gutiérrez Grillo。青年時代にLa Estrella Habaneraでボーカルとして活躍。1937年に米国に移住。1940年にMario BauzáとともにLos Afro-Cubansを結成して35年間所属。引退後は子息のMario Grilloが引き継ぐ。1984年4月15日にロンドンでのコンサート中に死亡。享年72歳。




Bobby Sanabria(1957年~)
1957年6月2日、ニューヨークのサウス・ブロンクス生まれ。両親ともにプエルトリコ出身。1975年にボストンの音楽学校に通い、1979年に卒業。1983年に芸術振興奨学金を取得。映画『Mambo Kings』に出演。また、Mario Bauzáの楽団とともにBill Cosbyのショーに出演した。
 また、ニューヨークに公立学校で頻繁に公演。現在、Manhattann音楽学校とThe New School para Jazz y Música Contamporáneaでアフロキューバン・ジャズのバンドBig Bandの教員。
 1993年にアルバム『¡Nueva York Achel!』、2000年に『Suieño Afro-Cubano』、2002年に『Bobby Sanabria y ¡Quarteto Ache!』、2003年に『50 Años de Mambo』、2007年に『El Espíritu Jíbaro』、『Big Band Urban Ceuntos Populares』、2011年に『Tito Puente Masterworks Live!』を発表した。

Nuyorican Son
Tin Tin Deo
Congo Mulence