チリのヌエバ・カンシオン


※曲は全てYouTubeにリンクしています。


Violeta Parra(1917~1967)
 ビオレッタ・パラは詩人ニカノル・パラの妹。1917年10月4日にチリのサンカルロスに生まれたが、生誕地は同市内か同地区内のサン・ファビアン・デ・アリコかの論争があったが、2013年に娘イサベルはビオレッタの生誕地はサンカルロス市内のエル・ロブレ通り531-535番地であったと表明している。その後、パラ一家はサンティアゴ、チジャン、ビジャ・アレグレに引っ越した。1931年に父親が死亡したが翌年兄ヒカノルによってサンティアゴに呼び寄せられて一時的に勉学に復帰したが、その後学業を放棄して姉イルダとともに「パラ姉妹」の名で飲食店で歌い始める。
 1938年に鉄道員で共産党員であったLuis Carecedaと結婚し、イサベル(1939)とアンヘル(1943)イが生まれる。1948年に離婚。1949年再婚し、同年に娘ルイサ、1952年に娘ロシータ・クララが生まれた。1950年代初めビオレッタは、サンティアゴ市内の労働者居住地区を始め全国で伝統的音楽の録音に従事した。1952年頃に姉イルダとともに1枚目のシングルを発表し、1953年には代表曲となる『Casamiento de negros』、『Qué pena siente el alma』を発表した。1956年には主宰していた音楽番組が民謡音楽賞を受賞した副賞としてワルシャワで開催された青年音楽祭に招聘され、その旅行を利用してソ連や欧州諸国を歴訪し、1957年にチリに帰国。
 同年11月娘イサベルや子息アンヘルとともにコンセプシオンに移動し、翌58年に同地に「民族芸術博物館」を設立。この間の1957年にアルバム『Canto y Guitarra』、 1958年に『Acompañada de Guitarra』、1959年に『La Tonada』と『La Cueca』を発表。
 1966年にはイサベルとアンヘルとともに記念碑的な曲『Gracias a la Vida』、『Volver a los 17』を含むアルバム『La Últimas Composiciones』を発表。ビオレッタは何回もの自殺未遂を経て、1967年2月5日に自殺。享年49歳。

Casamiento de Negros
El Rin del Angelito
Gracias a la Vida
Volver a los 17




Víctor Jara(1932~1973)
 チリのヌエバ・カンシオン運動の代表であり、演劇家としても有名。本名はVíctor Lidio Jara Martínez。1932年9月28日にチリのニュブレ州ブルネス県サンイグナシオの貧農家庭に生まれる。主婦である傍らギターを演奏し歌を歌った母親アマンダの影響で、学業と家族支援のための農業の傍ら幼年期より音楽活動に従事。小学生時代に貧困のため学業を断念したが、15歳の時に母親が亡くなった後、神父の勧めで聖レデントル修道会学校に進学したが、2年度に退学し兵役従事。
 2年後に兵役を終了して、21歳でチリ大学合唱団に入部、民族伝統音楽の収録活動に従事、24歳の時に演劇集団「Compañía de Mimos de Noisvander」と出会いチリ大学演劇学校を指導者として活動を開始。1957年にクンクメンの民俗音楽集団に入団し、ビオレッタ・パラと出会い、彼女の勧めで本格的に音楽活動に入った。
 1959年に最初の演劇作品『Paloma Quiero Cantarte』を制作、1962年にはチリ大学の演劇学院でAlejandro Sieveking「Ánimas de Día Claro」を脚本化、また代表曲である『Paloma Quiero Cantarte』と『La Cansión del Minero』の2曲を録音。1964~67年にはチリ大学の教員として従事する一方で、1968~70年にはニュニョア・人科学院民族音楽アカデミーの所長を務める。
 1966~69年には音楽集団Quilappayunの芸術監督を務め、1966年にはソロ・アルバム『Víctor Jara』を発表、また1970年にはパラ一家が経営する「La Peña de los Parra」で歌手として音楽活動に従事、1971年にはQuilapayunとともにエミ・オデオン社の代理企業を設立して、『Canciones Folclóricas de América』を制作。
アジェンデ人民連合時代(1979~73)には、同政権を支援する音楽活動を展開したが、1973年9月11日に発生したピノチェッ将軍指揮下の軍事クーデターが発生した際、国立工科大学の構内で多くの教員・学生とともに身柄を拘束されチリ劇場(現「ビクトル・ハラ劇場」)に拉致・監禁され、種々の拷問にかけられた末、9月16日に44発の弾丸を撃ち込まれて殺害された。

Te Acuerdo Amanda
Paloma Quiero Cantarte
El Aparecido
A Luis Emilio Recabarren
Preguntas por Puerto Montt
Ni Chcha ni Limoná
El Río Mapocho



Quilapayun
1965年7月26日にフリオとエドゥアルド・カラスコ兄弟とフリオ・ヌンハウセルによって結成された(マピーチェ語で「3人のひげ男」の意)。その後、パトリシオ・カスティージョ(1970年まで)、カルロス・ケサダ、ウィリー・オドー、エルナン・ゴメス、ロドルフォ・パラダが合流。芸術監督としてビクトル・ハラも協力。ビオレッタ・パラの子息アンヘル・パラと一時的に協力した後、サンティアゴやバルパライソのペーニャで演奏し始めた。1968年に『Viet-nam』を発表して革命的大衆音楽のスタイルを確立。
 アジェンデ人民連合政権期には、「文化大使」としてヨーロッパ諸国やラテンアメリカ諸国を訪問して成功を収める一方、国内では1973年2月に開催されたビニャ・デル・マルのアジェンデ政権支持のフェスティバルで活躍。
 1973年9月のピノチェッ将軍指揮下の軍事クーデター発生時にはフランス講演中であったが国外亡命、同年フランス、アルジェリア、オランダ、西ドイツ等のチリの社会主義路線を擁護する演奏活動を展開。しかし、1970年代末に共産党から距離を置き始め、チリ左翼勢力と決別し始める。1988年に実施された国民投票における反政府支援のために帰国。1990年代にはロドルフォ・パラダの去就をめぐって内紛傾向を強めて音楽活動を低下させ、2グループに分裂してゴメスとラゴスがパラダ・グループから離反した。ゴメスらは2003年にQuilapayunを再結成、パラダ・グループもQuilapayunを称して対立、訴訟の結果フランスの法廷は2007年にゴメス、ケサダ、カラスコ、ラゴス、ベネガス、ガルシア、エスクデーロの7名からなるグループの正統性を認知し、2009年に結審した。

El Pueblo Unido Jamás Será Vencido
Elegía al Che Guevarra
Titicaca
Venceremos
Allende
Cimienza La Vida Nueva



Inti Illimani
 1967年に国立工科大学の学生たちペドロ・ヤニェス、オスカル・グスマン、オラシオ・デユラン、シロ・レタマル、ルイス・シフエンテスによって結成される。Inti Illimaniは、ケチュア語とアイマラ語のいずれにおいても「太陽」を表わす。その後、シフエンテスが離脱し、一方マックス・ベルー、ルイス・エスピノサが合流。後にグスマンとレタマル、エスピノサが離脱した一方、オラシオ・サリナスが参加。だが、1968年2月にリーダーであったヤニェスが学業に復帰するため離脱し、変わってエルネスト・ペレス・デ・アルセが合流、オラシオ・サリナスがリーダーとなる。
 インティ・イジマニの第1作は1969年2月のボリビアで『Si Somos Americanos』を制作。1970年9月から12月にはアジェンデ人民連合の綱領を音楽化したアルバム『Canto al Programa』を制作するなどアジェンデ政権を擁護する音楽活動を展開した。人民連合の主題歌『Venceremos』の作曲者であるセルヒオ・オルテガや、『Cantata santa María de Iquique』の作曲家であるルイス・アルビスと連携した。
 1973年9月11日にピノチェッ将軍指揮下の軍事クーデターが発生した際には海外公演中であったが、その後1988年までイタリアに長期滞在して人権擁護闘争への支援活動を展開し、チリの民主化を支援するための公演活動を展開。1982年にはチリ好況に近いペルーのタクナで、1985年と86年には国境に近いアルゼンチンのメンドサで公演してチリ国内に向けたメッセージを送り続けた。
 1978年にはルイス・アドビスの作品『Canto para una Semilla』、1979年に『Cansión para matar Una Cuebra』、1981年に『Palimpsesto』、1985年に『Imaginación』1986年には『De Canto y Baile』を発表した。
 1988年に帰国し、以後チリで活動を継続中。1990年に『Leyenda』、1992年に『Andadas』、1996年に『Arriesgaré la Piel』、1997年に『Grandes Éxitos』1999年に『Amar de Nuevo』、『La Rosa de los Vientos』、『Sinfónico』、2000年に『Inti-Illimani Interpreta a Víctor jara』、2001年に『Antolopología en Vivo』等を発表している。 2004年から内紛状態に陥りオラシオ・サリナスのグループは「Inti Illimani Histórico」を称し、一方ホルヘ・クーロンのグループは「Inti-Illimani “Nuevo”」の名称を拒否して対立している。

*La Muerte no va conmigo
*Quien Eres Tu
*Canto De Las Estrellas



Isabel Parra(1939~)
 本名はVioleta Isabel Cereceda Parra。ビオレッタ・パラの長女で、1939年9月にサンティアゴに生まれる。パリで弟のアンヘルとデュエットで音楽活動を開始し、『Los Parra de Chillán』を録音、帰国後Demon ラベルでNeo Folkloreを開始したが、方法論やテーマで一致しなかったため離れ、アンヘルとともに「Peña de los Parra 」を設立してチリにシルビオ・ロドリゲスの普及などをして、1960年代末にはチリのヌエバ・カンシオンの支柱となる。『Cantando por Amor』、『Lo que Más Quiero』などを作曲。1968年8月にはサンティアゴ大聖堂を占拠した青年カトリック運動に連帯して大聖堂の中で歌い続けたというエピソードがある。
 1973年9月に発生した軍事クーデター後、翌74年2月に娘ミレナとともにフランスに渡航して定住、後にアルゼンチンに移った後、1987年にチリに帰国した。その間に亡命に関する『Ni Toda la Tierra Entera』を、またビクトル・ハラに捧げた『Como Una Historia』を作曲した。帰国後、ビオレッタ・パラ財団(Fundaciòn Violeta Parra)の会長に就任。以後、未完となっている2枚のアルバム『Lámpara Melodiosa』、『Colores』を編集。2005年にはFestival de Viñaにおいて『Cuecas al Sol』でフォルクローレ大賞を受賞。

Lo que Más Quiero
Cantando por Amor
Canción por la Unidad Latinoamericana
Acerca de Quién Soy y No Soy



Ángel Parra(1943~)
 本名はLuis Ángel Cereceda Parra。1943年6月にパルパライソに生まれ、ビオレッタ・パラと鉄道員Luis Cereceda Arenasの子息でイサベル・パラの弟。両親の離婚後、5歳の時にサーカスで歌い始め、10歳の時にチリの大ギターGuitarrónを弾くようになり、15歳の時にLos Norteñosとともに最初のEPである『4 Villancicos Chilenos』を発表。
 1960年にチリのテレビ曲で働き始め、その後ウルグアイでも同様の仕事に従事し、ディレクターにまで昇進した。1961年に母親のビオレッタや姉のイサベル・パラとともに欧州諸国を歴訪し、それが姉イサベルとデュエットを組むきっかけとなる。また、1965年にはPeña de los Parraと称するペーニャを開設し、ビクトル・ハラなどのミュージシャンの集いの場となった。
 1965年に帰国してDemonレーベルから最初のソロ・アルバムである『Ángel Parra y Su Gyutarra』を発表。同年2作目の『Oratorio para el Pueblo』を発表。その頃、Quilapayunの結成を支援して、ヌエバ・カンシオン運動の支柱の役割を果たすようになる。Ángel Parraの音楽はプロテスト・ソングとフォルクローレにまたがることを特徴とした。
 1973年9月の軍事クーデター発生に際し、身柄を拘束され国立スタディオやチャカブコの収容所に監禁されたが、この時期に『La Pasión según San Juan, Oratoria de Navidad』を発表した。国外追放後は、メキシコやフランスに居住し、軍事独裁を告発する活動を続けた。1981年には姉イサベルとともにチリのギター音楽である『La Prochaine Fois』を発表。1989年にチリに帰国した。1990年代にはアメリカ到達500年に関する作品を発表した。2006年には母親の追想記である『Violeta se fue a los Cielos』を執筆している。

Canto a Mi América
Te Quiero
Hasta Siempre Che Guevara



Los Jaivas(1963年結成。)
 1963年にチリのビニャ・デル・マルで結成されたヌエバ・カンシオンの世代に属するバンド。プログレッシブ・ロック調とフォルクローレを融合した曲風。チリで最も影響力のあるバンドの一つと考えられている。1963年6月にビニャ・デル・マルでEduardo、 Claudio、Gabriel Parraの3人の兄弟と、彼らの中学校時代の友人であるGuillermo Rivera CotaposによってThe High & Bassの名称で結成され、同地の市立劇場でLuis Dimasの曲「Sueña」や他の曲を歌ってデビューした。その後、6年間はビニャ・デル・マルで種々の機会にチャチャチャ、ボサノバ、ボレーロなどの曲を演奏。しかし、大学改革運動やアメリカニズム的傾向の影響を受けて音楽スタイルを変更。1969年から1971年の間にバンド名はLos Jaivasに変更し、即興的な演奏を中心とするように転向。1970年1月には前衛音楽フェスティバルで、5月にはチリ大学科学・音楽芸術学部とラス・コンデス文化院で、6月美はビニャ・デル・マル映画館で、 後にアルバム『Vorágine』に収録される曲を演奏。また、この時期にはPiedra Rojaのヒッピー的なリサイタルにも参加。1971年には「Foto de Primera Comunion」や「Que la Tumba Serás」を収録したアルバムを発表。1973年、映画監督のRaúl Ruizが映画『Palomita Blanca』の音楽を担当するように依頼。  1973年9月の軍事デーデター後は、アルゼンチンのZárateに転住し、1974年にはブラジル人音楽家のMandukaとともに『Los Sueños de América』を制作。同年9月には、Mario Mutisがチリに帰国せざるをえない状況に追い込まれた。12月には「Tarka y Ocarina」を収録したアルバム『El Indio』を制作しヒット。1975年にシングル「Mambo de Machaguay」、1976年に「En Tus Horas」、1977年に「Cancion del Sur」。  1977年にヨーロッパに向かい、パリに拠点を形成、各地でコンサートを開催。1978年にシングル「Bebida Mágica」「Sueño del Inca」を制作。1981年にはアルバム『Alturas de Machu Pichu』を発表。   1982年10月にチリに帰国、1983年2月に再び出国、その後海外公演と帰国を繰り返し、1996年にチリに帰国。同年に開催された第6回イベロアメリカ首脳会議で「Todos Juntos」が使用される。1998年に「Tributo a Víctor Jarra」を発表。第2回米州サミットのために「Todos Americanos」を作成、UNICEFの依頼で「Por los Niños del Mundo」を制作。2000年から2002年の間にクエカの名曲集『En el Bar-Restaurant "Lo Que Nunca Se Supo”』を制作。2004年にPablo Neruda生誕100年記念にアルバム『Aturas de Machu Pichu』を再版。2005年には新アルバムCanción de Amor』を発表。2013年8月にサンティアゴで6万人規模の結成50周年の記念コンサートを開催。

Ayer Caché
Indio Hermano
Mambo de Machaguay
Hijos de la Tierre
Por los Niños del Mundo
Todos Americanos



Illapu(1971年結成)
1971年にチリのアントファガスタで、Márquez4兄弟(Jaime、 Roberto、 Andrés、José Miguel)と従兄弟のOsvaldo Torresの5名によって結成される。1972年にサンティアゴに移動、アルバム『Música Andina』を制作。1975年にアルバム『Chungará』を発表、1976年にアルバム『Despedida del Pueblo』を制作、1977年には「Amigo」、「Zamba de Lozano」、「Atacamuños」、「El Cascabel」、「paloma Ausente」を収録したアルバム『Raza Brava』を制作、1978年には「Zampoña,Queja del Indio」、「Las Obreras」、「Cacharpaya」、「Está naciendo un Cantor」を収録したアルバム『Canto Vivo』を制作。  1981年10月米国とヨーロッパへのツアーから帰国しようとした際に、軍事政権によって帰国を拒否され、事実上の国外追放処分を受ける。そのためフランスに転住、1984年にはアルバム『De Libertad y Amor』を発表、1985年には一部がメキシコ・シティに移動し、グループはパリとメキシコ・シティに二分される。1988年には軍事政権に抗議して焼身自殺したRodrigo Rojas de Negriを追悼したアルバム『Para Seguir Vivieno』を発表。その中には、「Para Seguir Viviendo」、「Que Va a Ser de Ti」、「Paloma Vuela de Nuevo」、「 Cuarto Reino, Cuarto Rei」、「Se Están Quedando Sólos」を収録。 1988年、民政移管選挙を前に帰国し、「NO」キャンペーンに参加。メンバーはRoberto Máruqez、Andrés Márquez、José Miguel Márquez、Jaime Márquez、Eric Maluenda、 Carlos Elqueta、Raúl Acevedoの7名になっていた。1991年にはJuan Floresを加えてアルバム『Vuelvo Amor.....Vuelvo Vida』を発表、シングル「Vuelvo Para Vivir」がヒットした。 1993年にはアルバム『En Estos Días』を制作、収録されたシングル「Lejos de Amor」がヒット。1995年にアルバム『Multitudes』を発表。1998年にはロックやレゲエ調を取り入れたアルバム『Morena Esperanza』を制作、2000年にアルバム『Momentos Vividos』を制作、2002年にアルバム『Illapu』を発表。同年11月、メキシコに転住すると発表、Eric Maluendaが離脱。2005年、アルバム『Illapu 33』を発表。200

Vuelvo Para Vivir
Bio Bio Sueño Azul
Para Seguir Viviendo
Ojos de Nño



Osvaldo Rodríguez(1943~96)
 1943年7月26日、チリのバルパライソ生まれ。本名はOswaldo Rodríguez Musso。別名Gitano Rodríguez。Macky de Viña del Mar小学校を中退し、その後“Rubén Castro”成人学校に転学し、同校で複数の社会階層の存在を知り、社会観に変化が生じる。チリ大学バラパイソ校で建築学を学び始めたが 放棄して、文学を学んで文学学士号を取得。  1964年にチリ作家協会に加入、1965年にサンティアゴのカトリック大学で開催された音楽フェスティバルでVioleta Parraが作曲した「La Pericona ha Muerto」を歌って2位に入賞。同年8月からサンティアゴとバルパライソの各地のコンサートを実施。1969年に制作した「Valparaíso」が好評を博し、代表曲となる。  1960年代末には音楽とバルパライソ大学のグラフィック・デザイン助手として活動、1970年には同大学芸術・工学教室長に任じられる。Gitanoのあだ名がつけられ、「Valparaíso」や「Ha Llegado el Tiempo de Vivir」を収録した同名のアルバムを発表。1973年には『非常宣言』を題する詩集を制作。  同年9月に発生した軍事クーデターの際には軍によって追跡され、アルゼンチン大使館に庇護を求める。国外脱出後は短期間ブエノス・アイレスに滞在した後、チェコスロバキアのプラハに移動、1974年にはPablo Nerudaの詩「Marigarita Naranjo」のための作曲によってドイツのロストック劇場賞を受賞。1976年から1978年まではパリでJosé Donosoの作品「Coronación」に関する論文を執筆、またフランス・ラテンアメリカ文化センターで文化参事官を務める。1978年にバルパライソに捧げたさらなる1曲「Canción a la Caleta El Membrillo」を制作。1979年からプラハのCorolina大学哲学・文学学部に学び1981年に文学修士号を、1986年に博士号を取得。1986年にエッセー『La Nueva Canción Chilea, Continuida y Reflejo 』を執筆、ハバナで出版し、Casa de las Americas音楽賞を受賞。   1989年1月にチリに帰国、1990年にアルバム『Oswaldo Rodríguez en Vivo』を発表。同年カトリック大学芸術大学院の教員となり、Violeta Parraの生涯と作品について論じた。1994年半ばに再びヨーロッパに復帰、1995年9月に膵臓癌が発見され、1996年3月16日にイラリアのBardolino市で死亡。享年52歳。

Valparaiíso
Caleta El Membrillo
Tiempo De Vivir





アルゼンチンのヌエバ・カンシオネーロ


Horacio Guarany(1925年~)
 1925年5月15日、アルゼンチンのLas Garzas生まれ。本名はEraclio Catalín Rodríguez。父親はグァラニー系の先住民で英国系林業会社の樵り(林業労働者)4、母親はスペインのレオン州生まれ。14人兄弟の13番目。現Santa Fe市のAltoVerde地区で育つ。幼少時より音楽を好みSantiago Aicardiの指導でギターを弾き始める。1943年に音楽で身を立てるためにブエノス・アイレスに上京して、Bocaの町で料理人として働きながら歌を歌う。Herminio Giménez楽団でデビューし、1957年にはラジオ局(Radio Belgrano de Buenos Aires)でもデビューを果たし、「El Mensú」が好評を得る。その後、Horacioが作曲した「Guitarra de Medianoche」、「Milonga Para Mi Perro」、「La Guerrillera」、「No Sé Calla el Cantor」、「Regalito」等がCosquínフェスティバル等で好評を博す。  ペロン政権崩壊後、アルゼンチン共産党に入党。1972年にはOlga Zubarryと共作で映画『Si Se Calla el Cantor』を撮影、1974年にはEnrique Dawi監督の映画『La Vuelta de Martín Fierro』を撮影。同年、AAAから48時間以内に出国するよう脅迫を受け、12月にベネズエラに亡命し、その後メキシコ、スペインに亡命した。軍事政権はHoracionoレコード盤をすべて破棄した他、「La Guerrillera」、「Estamos Prisoneros」他の曲の普及を禁止。1978年12月に帰国、1979年1月20日、自宅に爆弾を仕掛けられたが、アルゼンチンに留まることを決意。  民政移管後の1983年、Luján州に民家を入手し、作曲・執筆活動に専念するようになる。2009年10月24日に最後のリサイタルを開催。

El Mensú
Guitarrero
Luche Luche
Estamos Prisioneros
Volver En Vino



Mercedes Sosa(1935~2009)
 1935年7月9日、アルゼンチンのSan Migual de Tucumán生まれ。本名はHaydeé Mercedes Sosa。別名La Negra Sosa La Voz de Américaとも呼ばれる。先住民Calchaquis系で父親は砂糖農場労働者、母親は上流家庭の選択婦として働いていた。1950年代に歌い始め、1950年代初頭のアルゼンチンのフォルクローレ音楽を大衆化したMargarita Palacios Antonio Tormoの影響を受ける。1957年にOscar Matus との結婚を契機にメンドサに移転、MercedesとOscarはメンドサで詩人Armando Tejada Gómezの協力を得て芸術協会を設立。MercedesはTucumán Buenos Airesとメンドサの3か所の「懐かしき地」と呼び、死後はこれら3か所に灰を撒いてほしいと望んでいる。
 1950年代はタンゴが大衆的支持を得ていた時期であり、1850年代から1930年代までのヨーロッパからの移民時代とは異なる国内人道移動の時代であった。1962年Mercedesは最初のアルバム『La Voz de la Zafra』を発表、このアルバムには夫MatusとTejada Gómezが作詞・作曲した「Los Hombres del Río」、「La Zafrera」、「El Río y Tú」、「Tropero Padre」、「Nocturna」、「Zamba de los Humildes」、「Zamba de la Distancia」、「El Indio Muerto」の8曲とMercedesがBen Molarに依頼した「Recuerdos de Paraguay」、「Sin Saber Por Qué」の2曲が収録されていた。また、収録曲の「Nocturno」はOscar Matusと出会った時の思い出を歌った曲であった。
 1963年2月11日、Matus とTejada Gómezとともに「ヌエボ・カンシオネーロ運動(Movimiento de Nuevo Cancionero)」の結成を発表した。1965年、MercerdesはMatusと離別してブエノス・アイレスに転居し、2枚目のアルバム『Cancionero Con Fundamento』を制作。同年開催された第5回Cosquínフォルクローレ大会で求めに応じて「Canción del Derrumbe Indio」を歌って絶賛を浴びた。このフェスティバルでの成功もあり、1966年にPolyGram社がアルバム『Yo No Canto Por Cantar』を発表する機会を提供、その中には「Zamba Para No Morir」、「Zamba Azul」、「Tristeza」等が収録された。1968年には「La Añera」、「Al Jardín de la República」を収録したアルバム『Con Sabr a Mercedes』を発表。1969年にアルバム『Mujeres Argentinas』を、1970年には「Canción Con Todos」、「Duerme Negrito」、「La Pomeña」を収録した『El Grito de la Tierra』、および『NavidadCon Mercedes Sosa』を、1971年には『Alfonsina y El Mar』と『Huana Azurduy』を発表。
 1969年にはチリを訪問し、Violeta ParraとVíctor Jaraに捧げた「Gracias a la Vida」と「手Recuerdo Amanda」を両面に入れたレコードを制作、1971年にはアルバム『Homenaje a Violeta Parra』を制作してアジェンデ政権との連帯を示す。1972年には「Cuando Tenga la Tierra」、「Triunfo Agrario」、「Si Un Hijo Quieren de Mí」を収録した『TraigoUn Pueblo En Mi Voz』を発表。1973年にはアルバム『A Que Flozca Mi Pueblo』を制作1974年にJoan Báezがアルゼンチンを訪問して開催したリサイタルにおいて二人で「Gracias a la Vida」を歌う。
 政治的にはペロンの支持者であったが、1960年代には共産党に入党。そのため1976年に軍事クーデターが発生した際には、軍事政権のブラックリストに入れられ、作品も販売禁止された。同年、Mercedesは「(Pablo Neruda)のPoema No。15」を含んだアルバム『La Mamancy』を制作。1978年にはリサイタル出演中に逮捕され、1979年には国外に亡命し、最初はパリに、その後マドリッドに向かった。フランコ政権が継続中のスペインでは発表活動に制限が加えられた。1982年2月にアルゼンチンの帰国。1983年にはアルバム『Como Un Pájaro Libre』を、1984年には『¿Será Posible El Sur?』を制作、「Todavía Cantamos」、「Todo Cambia」、「Como Pájaros en el Aire」を収録した。1988年にはブエノス・アイレスでラテンアメリカの女性歌手を集めた『Sin Fonters』を題するイベントを企画。
2009年9月18日に、腎不全でブエノス・アイレスの病院に入院し、10月4日に死亡。享年74歳。

Alfonsina y el Mar
Gracias a la vida
Balderrama
Cuando Tenga la Tierra
Estrella Azul
Años
Venas Abiertas
Todo cambia



Armando Tejada Gómez(1929~1992)
 1929年4月21日、アルゼンチンのメンドサ生まれ。ラテンアメリカの大衆歌とされている“Canción Por Todos”の作詞者。先住民Huarpe系の子孫。5歳の時に父親を亡くし、叔母に育てられる。小学校に行けず、6歳から新聞売りや靴磨きとして働き始めた。15歳の時にMartín Fierro読んで魅せられる同時に、政治・社会問題への関心を強めた。
 1950年に地方ラジオ局に職を得た頃からOscar Matusとともに作曲活動を開始。この時期に「los Hombres del Río」、「Coplera del Viento」、「Tropero Padre」を作曲。1954年にメンドサ州の文学コンクールで詩集『Pachamama:Poemas de la Tierra y el Origen』で2等賞を受賞。1957年には“Los Andes”紙の75周年記念賞を獲得。ペロン政権後半では権威主義的傾向に反発したが、エバ・ペロンは敬愛した。1954年にはラジオ曲を解雇され、1955年には2冊目の本である『Tonadas de la Piel』を発表し、Gildo D’Accurzio賞を受賞。1958年には詩「Hay Un Niño en la Calle」を収録した詩集『Antología de Juan』を出版し10万部以上を販売。1958年の大統領選挙では急進同盟(Unión Cívica Radical Intransigente)候補のArturo Frondiciを支持し、下院議員に選出されたが(~1960)、翌年にはFrondiciの右傾化を批判して離反し共産党に入党。1961年には『Los Compadres del Horizonte』を出版してキューバの“Casa de las Américas”賞を受賞。
 1957年にOscar MatusがMercedes Sosaと結婚し、またMercedesが歌手として活躍し始めたことから、MatusとTejadaが作曲した音楽が普及。特に、1962年にMercedesが発表したアルバム『La Voz de la Zafra』がヒットし、1963年2月11日にはMatusとMercedesとともに“Movimiento de Nuevo Canchinero”を結成。同年、4冊目の『Ahí Vá Lucas Romero』を発表。
 1964年にブエノス・アイレスに転居、音楽・文学イベントを連続的に開催。1967年には『Tonadas Para Usar』を出版、トローバ調のアルバム『Los Oficios de Pedro Changa』を発表。また、“ペーニャ”を開店、“Folklore ‘67”と名付ける。1974年には『Canto Popular de la Comidas』で“Casa de las Américas”賞を受賞。1992年に死亡。享年62歳。

Este Oficio De Mirarme
La Vida Dos Veces
Peaton Diga No
Muchacha



César Isella(1938年~)
 1938年10月20日、アルゼンチンのサルタ生まれ。本名はJulio César Isella。7歳の時にサルタを10日間興行したグループに参加。9歳の時に地元での歌謡大会で7週連続入賞。1954年、17歳の時にTomás Tutú Campos(1940-2001)、Javier E.Pantaleón(1940-1978)、 Luis Gualter Menú、日系人の Higa某とともにLos Sin Nombresを結成、Hotel Saltaで公演活動を実施。1956年にはアルゼンチン・フォルクローレの代表的グループとなるLos Fronterizos(1953年にEduardo MadeoとJuan Carlos Morenoが結成)に参加。1966年に同グループを離脱するまでに、「La Fiera」、「Se lo Llevó el Carnaval」、「Guitarreando」、「Corazón Guitarrero」、「Un Abrazo a Corrientes」、「Los Seguidores」、「Canción de Lejos」、「Viento No Más」、「Paloma y Laurel」等を制作した。また、同期間中の1964年にAriel Ramírez(1921-2010)の『Misa Criolla』の録音に参加した。Isellaは「Movimiento de Nuevo Cancionero」 に賛同し、1968年にはソロ・アルバム『Estoy de Vuelta』を制作、「Zamba Para No Morir」、「Milonga Triste」も収録した。1969年には「Canción Con Todos」を作曲(作詞はArmando Tejada Gómez)。1970年にはTejadaやLos Trovadoresとともにイベント『América Joven』を制作、1974年にはラジオ番組「Argentina Canta Así」がPrenio Martín Fierro賞を受賞。
 1976年に始まった軍事政権下では検閲下に置かれたが、同年にアルバム『Juanito Laguna』を制作したが、軍事政権が普及を禁止。民政移管後の1983年にアルゼンチンに帰国、1984年にはVíctor Herediaや el Cuarteto Zupayとともにイベント『Canto a la Poesía』を実施。1995年、プンタ・アレナスで開催されたイベロアメリカ・サミット会合で「Canción con Todos」を歌い、出席したフアン・カルロス1世、フィデル・カストロ、フェリペ・ゴンサレス、エドゥアルド・フレイらの首脳にも歌わせた。
 1995年から1997年の間にコスキンのフォルクローレ大会で3年連続して“Peña Oficial”を主催。1999年に米国が“Canción con Todos”の使用権を買い取り。2007年には活動50周年を記念してアルバム『50años de Simples Cosas』を発表。2012年には大統領府文化局から「ラテンアメリカ大衆音楽大使」に任命される。

Canción con Todos
Para Mi Tristeza
Canción De Lejos
Gabriel De America
Volveré Siemple a San Juan



León Gieco(1951年~)
 1951年11月20日、アルゼンチンのサンタ・フェ州Ca;ada Rosquín生まれ。本名はRaúl Alberto Antonio Gieco。アルゼンチンのボブ・デュランと評される。
 7歳から働き始めてギターを購入、学校時代に最初はフォルクローレのバンドを結成したが、その後ロック・グループLos Moscosを結成。1965年にテレビ局主催のコンクールで優勝。18歳の時にブエノス・アイレスに転居し、Litto BebbiaやGutavo Santaolallaと知り合い、1971年から1973年にブエノス・アイレス・ロック・フェスティバルに参加。1973年にデビュー・アルバム『León Gieco』を発表、コルドバ事件(Cordobazo)に基づいた「Hombres de Hierro」を収録した。1974年には2枚目の『La Banda de los Caballos Cansados』を制作。1976年にはアルバム『El Fantasma de Cantevilla』を制作したが、軍事政権の検閲を受け、3曲を削除し、6曲の歌詞の変更を余儀なくされたが、アルバムは好評を博した。その後、アルゼンチンの政治情勢から1年間ロサンゼルスに避難し、1978年にはヒット曲を集めた4枚目のアルバム『Sólo Le Pido A Díos』を制作。
 1985年には国内で収集した各地の音楽を基盤にアルバム『De Ushuaia a La Quiaca』を制作。1985年にはソ連、1986年と87年にはドイツでリサイタルを開催。1988年にはドイツとオーストリアでリサイタルを開催、帰国後「Semillas del Corazón」を発表。1992年にはMilton NascimentoやMercedes Sosaratoともにラテンアメリカ議会の創設を祝賀する音楽を制作、また『Mensajes del Alma』を制作。1994年には『Desenchufado』を制作。同年10月7日にはチリでVíctor Jara追悼リサイタルに参加。1997年にはアルバム『Orozco』を発表、「El Imbécil」、「Ojo con los Orozco」等を収録した。同年、EZLNを支援し先住民共同体への支援金を募集するためにアルバム『Juntos Por Chiapas』を制作。
 2001年にはアルバム『Bandidos Rurales』を制作。2003年にはVíctor Herediaらとともにチリで開催されたSalvador Allende追悼リサイタルに参加、またアルバム『El Vivo de León』を発表。2008年にはアルバム『Por Partida Tríple』を発表。2009年には映画『Mundo Alas』を制作して映画監督としてデビューを果たした。

Semillas del Corazón
Sólo le Pido a Díos
Hombres de Hierro
El Imbécil
Ojo con Los Orozco



José Larralde(1937年~)
 1937年10月22日、アルゼンチンのブエノス・アイレス州Huanguelénに生まれる。本名はJosé Teodolo Larralde。愛称は“El Pampa”。両親はアラブ系及びバスコ系。7歳の頃から詩を書き始め、また作曲を開始。他方、左官、機械工、農業労働者、トラクター運転手として働きながら音楽活動を開始。1966年にJorge Cafruneと知り合い、1967年にCarfruneが制作したアルバム『Jorge Carfrune』にLarraldeの「Perimiso」、「Sin Pique」が収録された。1967年にアルバム『Canta José Larralde』を発表。常にあらゆる不正と不平等に対して歌う姿勢を維持している。

Milonga de Tiro Largo
Solo Los Hombres Buenos
El Viento y El Roble
Exitos Destacados



Jorge Cafrune(1937~1978)
 1937年8月8日、アルゼンチンのフフイ州Perico del Carmen市El Sunchal生まれ。父母双方の曽祖父はシリア・レバノン系アラブ人。本名はJorge Antonio Carfrune Herrera。中学時代からギターを学ぶ。その後家族とともにサルタ州に転居、Luis Alberto Valdez、Tomás Campos、Gilberto Vacaと知り合ってLas Voces del Huayraを結成。1957年に「H.yR.」を制作。その後、CarfruneとValdezらの徴兵により新メンバーが入り、新公正でアルバムを制作したが、Carfruneは復帰後、Tomás Campos、Gilberto Vaca、Javier Pantaleónとともに新しいグループ「Los Cantores del Alba」を結成したが、短期間でCarfruneは離脱して、1960年にソロ・デビュー。
 1962年にブエノス・アイレスに帰還して知り合ったテレビ番組ディレクターのJaime DávalosにCosquínで開催されるフォルクローレ・フェスティバルに出ることを勧められ、正式参加ではなかったものの、場外で演奏して好評を博し、ソロ演奏家として活躍するようになる。ブエノス・アイレス州のHuanguelénではJosé Larraldeと知り合い、また1965年のCosquinのフェスティバルではMercedes Sosaを紹介する役を果たす。1967年にはCacho Peñalozaへの追悼のため国内を「De a Caballo Por Mi Patria」を公演旅行。
 1972年から1974年にはMarito(1960年~)とデュエットを組み、アルバム作成や海外公演をともに行う。その後、米国とスペインへの公演中にスペインに残留してLourdes López Garzónと婚姻。1977年に父親が逝去したため帰国、Carfruneはペロン派であったため軍事政権とは折り合いが悪かったが、アルゼンチンに残留して音楽活動を継続。1978年1月に開催されたCosquinのフェスティバルでは観衆のリクエストに応えて禁止されていた「Zamba de Mi Esperanza」を歌ったため軍事政権の不評を買うことになる。同年1月31日、San Martínが亡くなった地であるBoulogne-Sur-Merに赴いた際、19~20歳の青年に小型トラックから銃撃を受けて死亡。享年40歳。

Coplas del Payador Perseguido
Zamba de Mi Esperanza



Los Trovadores(1956年結成)
 1956年末にアルゼンチンのロサリオでBernardo Rubinと彼の兄弟たちによってLos Trovadores del Norteとして結成された。1959年にウィーンで開催された第7回「世界青年平和会議」に参加、帰国後Bernardo Rubin、Francisco Romero、Carlos José Pino、Sergio José Ferrer、Eduardo Gómezの5名からなるQeuintetoとして正式に成立。1963年にCosquínで開催されたフォルクローレ・フェスティバルにギター曲「Puente Pexao」で登場。1964年にRubinと他のメンバーとの間でグループ名の使用をめぐって紛争が生じ、他の4名が離脱してLos Auténticos Trovadores(もしくはTrovadores)を結成。1996年に結成当時のメンバーが再結集してLos Originales Trovadoresを結成。ヒット曲には「Puente Pexoa」、「El Cachopecero」、「Platerito」、「Romance de María Pueblo」、「Cuando Tenga la Tierra」、「Llegan Por la Siembra」、「Los Puebolos de Gesto Antiguo」等がある。

Puente Pexoa
Romance de María Pueblo
Cuando tenga la Tierra
Las Voces de los Pájaros de Hiroshima



Teresa Parodi(1947年~)
 1947年12月30日、アルゼンチンのコリエンテスに生まれる。本名はテレサAdelina Sallarés。9歳の頃からギターと歌唱を学び始める。1979年、31歳の時にAstor PiazzollaのQuitetoに参加。1980年にアルバム『TeresaPerodi』を発表。1983年にJorge Luis Borges等の詩を音楽化したアルバム『Canto a los Hombres del Pan Duro』を制作。1984年、Cosquínで開催されたフォルクローレ・フェスティバルに初めて参加、1985年にはPablo Milanésらと公演、その模様はビデオ化されて公表される。1988年に「Letra y Música」を制作。1993年には『Corrientes』を制作。
 2000年にMercedes Sosaに招かれて、Víctor Herredia、León Geico、Julia Zenko、 Alejandro Lernerとともにイスラエルで公演。2006年7月にブエノス・アイレス名誉市民号を付与され、2011年8月にはアルゼンチン政府から芸術大賞を受賞。2014年5月7日にはフェルナンデス大統領から文化大臣に任命された。

Allá Por Las Tardes
Canta Compañero
Pedro Canoero
Maria Pilar



Silvina Garré(1961年~)
 1961年10月4日、アルゼンチンのロサリオ生まれ。アルゼンチンのポップ・ロック歌手。学校時代にフルート、ギター等の演奏を学ぶ。1961年に映画監督のEduardo Mignonaから映画『Evita』のために歌うことを求められる。また、Jorge Polaco監督の映画『Diapasón』、Roberto Denis監督の『 Luna Caliente』、 Carlos Vallejo監督の『Martín Fierro:El Ave Solitaria』の制作に協力。Juan Carlos Baglietto、Lalo de los Santos、Jorge Fandermole、Litto Nebbia、Teresa Parodi、Los Trovadoresらのミュージシャンの求めで数多くのアルバムの制作に協力。1993年に詩集『Pena Privada』を発表。

Diablo y Alcohol
Reinas de Pueblo Grande
El Blanco y Negro
Cancion del Pinar



Los Tekis(1991年結成)
 1991年に開催されたCafayateでのフェスティバルでデビューしたJujui州出身のグループ。Sebastián López、Juanjo Pestoni、Mauro Coletti、Pipo Valdez、Walter Sader、 Pucho Ponceによって構成される。曲風はアルゼンチン北西部からボリビアのリズムを基調とする。1年間に1万キロの公演旅行をこなす。1995年にはCosquínのフェスティバルで入賞し、デビュー・アルバムの『Los Texis』を発表。2000年に『En Concierto』、2001年に『Noche de Paz』、2002年に『Texis』、2003年に『Somos』、2007年に『Mamapacha』、2009年に『Soltame Carnaval』、2010年に『Mixtura』、2011年に『Carnaval, Pasión del Norte』、2012年に『Rock & Texis』を発表。

Anillos de Oro
Vienes Y Te Vas
Zamba del Tiempo Amor
Selección de Carnavalitos



Rubén Patagonia(生年不詳)
 アルゼンチンのパタゴニア地方のChubut州Comodoro Rivadavía出身。本名はRubén Chauque。先住民Tehuelche出身で先住民の大義の主張者。芸名は自らのアイデンティティを示すため。1986年に映画監督Carlos Sorín監督の映画『 La Película del Rey』に出演、1987年には同監督の作品『La Eterna Sonrisa』に、1988年にはイタリア映画の『De los Apeninos a los Andes』に1989年には『El Navegante y los Cóndores』に、2000年にはHéctor Oliviera監督の『EL Camino』に出演した。
 音楽活動では1997年にアルバム『Miremos al Sur』、1999年に『Volver a Ser Uno』を発表し、Marcelo Berbel、León Gieco、Alma Fuerte等と協働してきた。

Amutuy Soledad
Nunca Mates La Flor



Víctor Heredia(1947年~)
 1947年1月24日、ブエノス・アイレス市内のMonserrat地区に生まれ、同拡大区の第2地帯のMorenoで育つ。父方はフランス系移民で、母方の祖母はCatamarca州Calchaquís生まれのCapayán系先住民。1967年、19歳の時にCosquínのフォルクローレ・フェスティバルで新人賞を獲得、1969年には同フェスティバルで入賞し、アルバム『El Viejo Matías』を制作し、1974年にはPablo Nerudaに敬意を表するアルバムを制作。常にラテンアメリカの社会問題と人権問題に関心を示し、青年時代には共産党に所属。社会派のMercedes Sosa、Manuel Serrat、León Gieco、Milton Nescimento、Silvio Rodríguez、Pablo Milanés等と協働してきた。1976年には軍事政権によって忌避され、同年6月には妹のMaría Cristinaが夫ともに強制失踪。
 ヒット曲には「Todavía Cantamos」、「Sobreviviendo」、「Bailando con Tu Sombra」、「Coraje」、「Razónde Vivir」、「Amanecer Frente a Tu Casa」、「Esa Libertad Que Soñamos」がある。1986年にはアルバム『TakiOngoy』を制作、2003年にはアルバム『Argentina Quiere Cantar』、2004年には小説『Alguien Aquí Conmigo』を、2006年にはその続編の『Rinc:on del Diablo』を発表。2014年5月25日には文化賞が企画した5月革命を祝賀するショー“Somos Cultura”に出演。

Todavía Cantamos、
Sobreviviendo
Bailando con Tu Sombra
Coraje
Razónde Vivir