レゲエ


※名前のリンクはアーティストの公式ホームページです。
また、曲は全てYouTubeにリンクしています。



Bob Marley(1945~1981)
 1945年2月6日、
ジャマイカの首都キングストンから3時間の距離にあるナイン・マイルに生まれる。本名はRobert Nesta Marley Booker。父親はイギリス系ジャマイカ人で英国海軍海兵隊大尉、母親はアフロ系ジャマイカ人。離別状態にあった父親はBobが10歳の時に死亡。Bobは混血であることでアフロ系ジャマイカ人から差別される環境の中で育ったが、Bob自身は混血であることに恥じることもなく、他方で自身を黒人であると見なしていた。
 Bobはナイン・マイル居住中にBobの母親がBunny Wailerの父親と関係を結んだため、二人は義理の兄弟となり、ともに音楽への関心を深めた。キングストンに移り住んだ後、Joe Dominoの音楽教室に入り、そこでWinston Hubert McIntosh(Peter Tosh)と知り合った。1962年にオーディションを受け、翌1963年にBob、Bunny、Peterの3人でThe Wailing Wailers(「抗議の叫び」の意)を結成。The Wailing Wailersはパーカッション奏者でラスタファリアンであったAlvin Pattersonの好意を受けて大物プロデューサーのClement Doddに紹介され、1963年に最初のシングル曲「Simmer Down」を発表した。メンバーはBobら3人の他3名が加わり6名となっていた。
1966年4月にエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝のジャマイカ訪問から6ヵ月後に米国からジャマイカに帰国したBobはラスタファリ運動に接近し、他方BunnyとPeterにSkaやRocksteadyを取り入れた音楽をベースとして新しいThe Wailersの結成を呼び掛けた。しかし、ラスタファリ運動への接近によりDoddと訣別することになり独自のレーベルであるW1il’N’Soulを設立。
 1973年、イギリスのIsland Recordsの協力で初めてのアルバム『Catch a Fire』を発表、その時期にBunnyがWailersから離脱し、代わりのJoe Higgsが参加。同年中にWailersは2作目の『Burnin’』を発表、これには「Get Up, Stand Up」や「I Shot the Sheriff」が所収されていた。1974年には『Natty Dread』を準備、翌1975年に発売した。この中には「So Jah Seh」、「Revolution」、「No Woman NoCry」、「Rebel Music」等が入っていた。1976年には『Rastaman Vibrations』を発表、この中の「War」にはハイレ・セラシエ皇帝の国連総会での演説の一部が取り込まれていた。
 同年12月3日、Bobが盟友である社会民主主義系の国民大衆党(PNP)党首のマイケル・マンレイ首相の後援で国内和解に向けた平和コンサートを開催するす予定であった2日前に自宅を襲撃され胸部と腕に被弾して負傷。このため再度の襲撃を恐れて1977年初頭にロンドンに転居し、同地でアルバム『Exodus』を発表。1978年には『Kaya』を発表。
1978年4月にジャマイカに帰国し国内和平を実現し、国連から平和賞を受賞。ライブ・アルバムの『Babylon By Bus』を発表。その中には「ジンバブエ」、「So Much Trouble In the World」、「Africa Unite」が所収されていた。1980年4月にはジンバブエ政府から独立記念日に演奏するよう依頼されて同国を訪問するなど、アフリカの平和的統一を祈願して尽力した。同年5月には「Could You Be Loves」を含む『Uprising』を発表。
 1977年7月から右脚に癌の兆候が見られたが、手術を受けることなく活動を継続し、1980年5月にはUprisingツアーをミラノやニューヨークで実施。その後、癌の転移が進み病状が悪化したためドイツの病院に入院したが、翌1981年にジャマイカに一時帰国した後、同年5月11日にマイアミで死亡。享年36歳。

Exodus
Rastman Vibration
I Shot the Sheriff
No Woman, No Cry
Is This Love?
Satisfy My Soul
Could You Be Loved?
Zion Train



Peter Tosh(1944~1987)
 1944年10月19日にジャマイカの農村ウェストモアランドに生まれる。本名はWinston Hubert McIntosh。母親が若かったため、3歳の時に叔母に預けられて育つ。教会の説教士であった父親には10歳の時まで会ったこともなかった。教育は近所の教会に通って受けたが、教会でオルガンに触れ、次にギターに親しみをもつようになった。1956年にPeterは叔母とともにキングストンのデンハム・タウンに移ったが、翌年叔母が死んだため、同市内のトレンチタウンに住む叔父と同居するようになる。トレンチタウンでPeterはBob MarleyやBunny Wailerと知り合った。1963年に3人はThe Waiking Wailaersを結成し音楽活動を始め、同年にはJunior Braithwaite、Beverly Keiso,Cherry Smithとともに最初のシングル「Simmer Down」を録音した。1965年に彼ら3名は離脱した。
 1964年から67年までに多くのヒット曲を発表したが、その中には「400 years」、「I’m The Toughtest」などがあったが、この時期3人ともラスタファリに入信し、グループ名をThe Wailersに改名し、スカやロックステディを取り入れてレゲエを創出した。
 The Wailerは1973年に最初のアルバムである『Catch a Fire』を、次に同年に『Buening』を発表した。『Catch a Fire』には古典となった「400 Years」や「Stop That Train」も所収されていた。『Burning』は社会正義を追求するThe Wailersの姿勢を反映していた。同年、Toshは交通事故に合い、イボンヌ夫人が死亡し、Toshも頭を負傷した。
 1974年、Toshはソロ活動を始めるためThe Wailersを離脱し、Wailersはその後Bob Marley & The Wailersを称することになる。1976年にマリファナ合法化を訴える「Legalize It」を発表。1978年にはアルバム『Bech Doctor』を発表、その中に納められた「Don’t Look Back」ではRolling StonesのMick Jaggerと共演した。1978年に開催されたOne Love Peace Concertではジャマイカの資産を売っているとマイケル・マンリー首相を批判し、「自分は政治を信じない、だが自分はその結果に苦しんでいる」との有名な言葉を発した。その数ヶ月後には逮捕され、拷問を受け腕が折れ、頭も負傷した。
 1979年に発表した『Mystic Man』と1981年に発表した『Dead andAlive』に販売に力を入れたが、売上げは芳しくなかった。1983年には『Mama Africa』を発表した。Toshはアフリカ問題に力を入れ、1977年には『Apartheid』と『Equal Rights』を、1979年に『Fight On』、1983年に『Not Gonna Give It Up』を発表するとともにアフリカを何度も訪問した。
  また、1987年には『No Nuclear War』を発表したが、同年9月11日にキングストン市内で帰宅途中に3人組の暴漢に襲われ頭部を撃ち抜かれて死亡した。享年42歳。

Lagalize It
Don’t Look Back
Mystic Man
Mama Africa
400 years



Bunny Wailer(1947~)
1947年4月10日、ジャマイカのSt.Ann管区のNine Mile村に生まれる。誕生時の名前はNeville O’Riley Livingston。Nine MileでBob やPeter Toshと出会う。Bunnyの父親がBobの母親と結婚、PeterがBunnyの妹を結婚するなど、3人は家族的結合で結ばれる。
 1966年にBobが米国のデラウェイに移転した後は、BunnyがConsantine Walker とともにWailersの中心となり、「Who Feels It Knows It」、「I Stand Predominant」、「Sunday Morning」を作曲。Bunnyの曲風はゴスペルやCurtis Mayfieldの影響を強く受けていた。1967年にはゴスペルの影響下で「This Train」を作曲。同年7月、大麻所持の廉で逮捕され、14ヶ月の禁固刑を宣告された。
 1973年にWailersを離脱してソロ活動を開始。作品は精神的な傾向を強めた。ルーツ・レゲエ系の典型的なアルバムは『Blackheart Man』である。1976年にはWailersの曲を集めた『Hook Line & Sinker』を制作。ルーツ・レゲエ系のみでなくダンスホール系の作品も出しており、『Bunny Wailer Sings the Wailers』にはこの傾向の曲も収録した。  Bunnyは1991年、1995年、1997年にグラミー賞の「ベスト・レゲエ・アルバム賞」を受賞している。現在はキングストンに居住。

Roots Man Skanking
Dreamland
Dancing Shoes



Rita Marley(1946年~)
 1946年7月25日サンティアゴ・デ・クーバ生まれ。本名はAlpharita Constancia Marley Anderson。幼少時に家族がジャマイカのキングストンのトレンチタウンに転居。1960年代半ばから地元でThe Soulettesというトリオで歌い始める。Bob Marleyと知りあって結婚し、Bobらが結成したThe Wailersのコーラス歌手として歌う。1966年4月21日に行われたエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝のジャマイカ訪問をきっかけにラスタファリアンとなる。
Bobが世界的に知名度を得たのちに離別。Bobの死後はソロ活動を開始、一方でBobの遺産を管理するなど異腹の子供たちの面倒も見た。また、1998年にRita Marley基金を設立してBob Marley基金に協力してアフリカ支援を継続。2004年に自伝『No Women No Cry』を発表。2005年2月にはエチオピアのアジスアベバでコンサートを開催。2007年1月にBobの死体を掘り起こしてエチオピアのShasshemeneに埋葬し直そうとしたためジャマイカ政府と紛争となる。現在、ガーナに居住。

Keep on Pushing
Look Through the Window
One Draw
Pushing



Ziggy Marley(1968年~)
 1968年10月17日、ジャマイカのキングストン市内のトレンチタウン生まれ。Bob MarleyとRira Marleyの長男。本名はDavid Nesta“Ziggy”Marley。2000年にアルバム『“Ziggy Marley & the Melody Makers Vol.1』、2003年に『Dragonify』を発表。キングストンで自らのレーベルGhetto Youth Initedを設立、異母弟Damian Marleyの活動も支援。
 『Shrink Is In』、『Parker Lewis Nunca Pierde』、『Cosas de Casa』、『New York Undercover』、『Embrujadas』等の番組に出演。また、『The Reggae Movie』(1996年)、『Marley Magic』(1996年)、『UnFishified World』(2005年)、『I Love The 70’s』(2003年)等のドキュメンタリー作品に出演。2004年にはアニメ映画の『El Espantatiburones』に声優として出演し、Sean Paulとデュエットを歌う。2006年に枚目のアルバム『Love Is My Religion』を制作。
他方、国連青年大使に任じられたり、UNICEFの慈善活動にも協力したほか、U.R.G.E.(Unlimited Resources Giving Enlightenment)を立ち上げるなど社会活動にも積極的に参加。

Conscious Party
One Bright Day
Fallen Is babylon
Love Is My Religion
Fly Rasta



Sharon Marley(1964年~)
 1964年11月23日、ジャマイカ生まれ。Rita Marleyの娘で、Bob Marleyの養女。1988年まで弟のZiggy Marleyが率いるZiggy Marley & the Melody Makersに参加。 1989年にはDenzel Washington主演の映画『The Mighty Quinn』に出演。1999年にテレビ映画『One Love:The Bob Marley All-Star Tribute』に出演。2008年には映画『Africa Unite A Crebration of Bob Marley’s Birthday』に出演。

The Mighty Quinn(サウンドトラック)



Cedella Marley(1967年~)
 1947年8月23日、ジャマイカのキングストン生まれ。Bob MarleyとRita Marleyの長女。弟のZiggy Marleyが結成したZiggy Marley & the Melody Makersに参加。1989年にDenzel Washington主演の映画『The Mighty Quinn』、1993年にRcihard Edison主演の映画『Joey Breaker』に出演。現在、マイアミに居住。



Stephen Marley(1972年~)
 1972年4月20日、米国デラウエィ州Wilmington生まれ。本名はStephan Robert Nesta “Raggamuffin”Maeley。Bob MarleyとRita Marleyの次男。1986年から兄Ziggy Marleyが率いるZiggy Marley & the Melody Makersのメンバー。プロデューサーとして弟Damian Marleyno音楽活動に協力。2005年にはDamianのアルバム『Welcome to Jamrock』の制作に参加、その他「All Night」、「Pimpa’s Paradise」、「For the Babies」、「Still Searching」をてがけた。2008年にはアルバム『Mind Control』でグラミー賞のレゲエ部門賞を受賞。「Comfortable」を発表した“Jo Mersa”Marleyの父。

Mind Control
Hey Baby



Julian Marley(1975年~)
 1975年6月5日、ロンドンに生まれる。本名はJulian Ricardo Marley Pounder。Bob Marleyとバルバドス出身のLucy Pounderの子息。1993年に兄弟であるZiggy、Stephan、 Damian、Ky-Maniとの関係を強めることと、レゲエの伝説的ミュージシャンと交流するためにジャマイカに定住。特に、1987年にJulianの自宅近く殺害されたThe WailersのドラマーであったCarlton Barrettを尊敬。Barrrettに因む曲「Uprising」から名前をとった“The Uprising”を結成して、Ziggy Marley のthe Melody Makersとも協力。1989年にはZiggyらとGhetto Youths Crewを組織(2002年には独自のレーベルに進展)。
 1996年に最初のアルバム『Lion In The Mornig』を制作、2枚目のアルバム『A Time And Place』ではレゲエとジャズの融合に挑戦。2003年に兄弟たちとともにStevie Wonderに捧げた「Master Blaster」を制作。2004年に米国で開催されたロック・レゲエ・フェスティバルに兄弟たちとともに参加し、これを機会に「Africa Unite」プロジェクトを立ち上げ、2005年にエチオピア、2006年にガーナ、2008年にジャマイカで公演。2008年にはジャマイカ政府の要請で北京オリンピックに参加してUsain Boltの表彰に立ち会う。2009年にはレゲエ、ダンスホール、R&B、ヒップ・ホップを融合させたアルバム『Awake』を制作、グラミー賞にノミネ-トされた。

Loving Clear
Boom Draw
Systems
On The Floor
Harder Day
Rock Me With



Ky-Mani Marley(1976年~)
 1976年2月26日、ジャマイカのFaimouth生まれ。本名はKymani Marley。Bob Marleyと卓球選手であったAnita Belnavesの子息。

War
The Journey
Many More Roads
Warriors



Damian Marley(1978年~)
 1978年7月19日、ジャマイカのキングストン生まれ。本名はDamian Nesta MarleyBreakspeare。Bob MarleyとCindy Breakspeareの唯一の子息。愛称は“Junior Gong”。13歳から音楽活動。他の兄弟とは異なりレゲエとラップの融合を目指す。思想的には愛と地球を愛するRastafari精神を継承。アルバムを5枚制作。
 1996年に最初のアルバム『Mr.Marley』を制作。2001年に2枚目の『Halfway Tree』を発表してグラミー賞の最良レゲエ・アルバム賞を受賞。2007年には『Welcome To Jamrock』がグラミー賞を2賞(最良オルターナティブ賞と最良レゲエ・アルバム賞)受賞。2010年に4枚目のアルバム『Distant Relatives』をラップ・ミュージッシャンのNasと共作。2012年には5枚目のアルバム『Nothing』を制作。

There For You
The Master Has Com Back
Road To Zion
One Load of Bread
As We Enter



Jo Mersa Marley
  Bob Marleyの次男Stephen Marleyの子息。デビュー・アルバムは『Confortable』。

Comfortable
Sunshine
Bad So



Jimmy Cliff(1948~)
 1948年4月1日にジャマイカのサント・キャサリン生まれ。本名はJames Chambers。
プロデューサーのLeslie Kog(1971年死亡)との出会いで音楽活動を本格化。1964年から国際舞台にも出演し、イギリスのIsland Recordsからアルバム『Hard Road to Travel』を発売、その後『Waterfall』『Wonderful World, Beautiful People』『Vietnam』を発表。『Vietnam』はプロテスト・ソングとしてボブ・ディランに絶賛された。
 1972年に映画『The Harder They Come 』に出演し、同映画は世界的にヒットしてレゲエを世界に知らしめる結果となったものの、ジャマイカ国内では評価は高くなかった。その後、一時期活動を休止し、アフリカに旅立ってイスラム教に入信、その後音楽活動に復帰した。1983年に『Power & the Glory』、1985年に『Cliff Hanger』を制作。『Cliff Hanger』はグラミー章を受章した。
 1988年には『Hanging Fire』、1989年に『Images』、1990年に『Save Our Planet Earth』、1996年に『Higher and Higher』、1999年に『Humanitarian』を発表し、2002年には『Fantastic Plastic People』、2003年に『Cuando Menos Te Lo Esperas』(「You Can Get It If Really Want」所収)を発表。2004年には電子リズムを導入した『Black Magic』を、2012年に『Rebirth』発表した。精神主義的な傾向を強めてきた。

Many Rivers To Cross
Sittin’ in Limbo
You Can Get It If You Really Want
Samba Reggae



Garnett Silk(1966~1994)
 ラスタファリ系のレゲエ・ミュージッシャン。1966年4月2日にジャマイカのマンチェスターに生まれる。本名はGarnet Damion Smith。12歳の頃からLittle Bimboの名で音楽活動を開始し、1980年代に「Conquering Lion」、「Soul Remembrance」、「Pepper’s Disco」、「Stereophonic」、「Destiny Outernational」をヒットさせ、1987年にアルバム『Problem Everywhere』を発売され、 1988年には『Journey』を発表。ともにラスタファリであるTony Rebelとともに、『Garnett Silk Meets the Conquering Lion』を発表。
 1990年にはChevelle Franklinとデュエットで『We Can Be Togehter』を発表したが、郷里マンチェスターに帰って作曲活動をした後に復帰し、「Mama」、「Seven Spanish Angels」、「I Can See Clearly Now」を制作。1992年にはアルバム『It’s Growing』を発表し、同年のジャマイカにおけるベストセラーとなる。シングル「Hey Mama Africa」も大ヒットし、国際的にはSilkの最大のヒットとなる。1993年には「Zion in a Vision」を所収した『Gold』や『Buju Banton Meets Garnett Silk and Tony Rebel』を、1994年には『Lord Watch Over Our Shoulders』を発表した。
 1994年12月9日に母親の家にて誤射した友人により母親とともに射殺された。享年28歳。

Hey Mama Africa
I Can See Clearly Now
Lord Watch Over Our Shoulders



Diana King(1970~)
 レゲエ・シンガー。1970年11月8日、ジャマイカのスパニッシュ・タウンにアフリカ系の父とインド系ジャマイカ人の母の間に生まれる。1994年にラッパーであるノトーリアスB.I.G.が発表したアルバム『Ready to Die』の収録曲「Respect」にゲスト参加した後、ソニーミュージックとレコード契約。1995年に最初のアルバム『Tougher Than Love』を発表、収録曲「シャイ・ガイ」は世界で500万枚を販売、米国の映画『バッドボーイズ』の主題曲ともなった。1996年には日本のレゲエ歌手NAHKIとデュエットしたシングル「I’ll Do It~愛のパトワ~」を発表。1997年に2番目のアルバム『Think Like A Girl』を発表。このアルバムからシングルカットされた「小さな願い I Say A Little Prayer」は米国でもヒット
  2000年にマドンナのMaverick Recordsと契約し、第3番目のアルバム『Respect』を発表したが、米国ではリリースしなかった。2007年から自身のレーベルであるThink Like A Girlに所属して音楽制作活動を行っている。

Respect
Shay Guy
The Light Within
I Say A Little Prayer



Luciano(1964~)
 ラスタレゲエ・ミュージッシャン。1964年10月20日にジャマイカのマンチェスターに、精神主義的で音楽好きの両親の11人兄弟の7番目に生まれる。本名はJepther McClymont。1992年からレコーディング活動を開始。最初のシングル「Ebony&Ivory」の後、最初のアルバム『Moving Up for RAS 』を発表、次に『Give My Love A Try』を発表。ラスタ・ルネサンスの中心的ミュージッシャンとして活躍。1994年には『One Way Ticket』を発表。1994年のGarnett Silkの死後、注目度を増す。1995年には『Where There Is Life』を発表、収録曲「It’s Me Again Jah」、「Who Could IT Be」がヒット。1997年に2番目のアルバム『Messenger』を発表。


It’s Me Again Jah
Shake It Up Tonight



Prince Buster(1938~)
 1938年5月24日ジャマイカのキングストン・オレンジ通り生まれ。本名はCecil Bustamante Campbell。ミドルネームがジャマイカ独立後の初代首相(労働党所属)のWilliam Alexander Clarke Bustamanteに由来。
 1961年にJah Jerry、Drumbago、Rico Rodriguezと4人で結成したBuster’s Groupの名でデビュー・シングル盤「Life Honey/Luke Lane Shuffle」を発表。同年、Folkes Brothersとともに「Oh Carolina」を制作。1960年代を通して、初期のスカ音楽の曲を数多く制作した。その中には「Madness」(1963)、「Wash Wash」(1963)、「One Step Beyond」(1964)、「Al Capone(1964)」が含まれる。1964年、Busterは米国のヘビー級ボクサーのモハメッド・アリの招待でマイアミの「イスラムの国(ブラック・ムスリム)」のモスクでの講演を依頼されるなど、ブラック・ムスリムとの関係を強め、ジャマイカでも活動を展開した。1967年に「The Ten Commandments」を発表。
また、1960年代にはRocksteadyの流行にも加わり、1967年には「Shaking Up Orange Street」を制作、同年アルバム『Judge Dread Rock Steady』を発表。SkaとRocksteadyを通じてレゲエの成立に重要な役割を果たす。1972年にはJimmy Cliff主演の映画『The Harder They Come』にDJ役で出演した。
 2001年にジャマイカ政府から音楽への貢献を表彰され、2002年にはトロントで開催された「スカ・フェスティバル」に出演。現在、マイアミに居住。

Madness
One Step Beyond
Judge Dread
Al Capone
Take It Easy



Desmond Dekker(1941~2006)
 1941年7月16日にジャマイカのキングストン周辺地域のSaint Andrew Parishに生まれる。本名はDesmond Adolphus Dacres。幼年時代はキングストンで過ごし、祖母や伯母の影響で教会音楽に馴染む。1961年にレコード会社2社のオーディションに応募したが不合格となった後、レスリー・コングス・ビバリーズ社と契約を交わすに至る。1963年に同社から発表した「Honour Your Mother and Father」がヒットし、音楽生活の出発点となる。4作目の「King of Ska」がヒットしてジャマイカのビッグ・スターとなる。兄弟4人を集めてThe Acesを結成し、以後Desmod Dekker and The Acesを名乗る。1967年にDerrick Morganのアルバム『Tougher Than Tough』に登場し、貧民街に生きる青年たちを歌った。シングルの「Rude Boy Train」、「Rudie Got Soul」、「It’s a Shame」、「Wise Man」、「Hey Grandma」、「Unity」、「If It Pays」、「Sabotage」、「Pretty Africa」はアルバム『007(Shanty Town)』に収録された。1968年にはアルバム『Israelites』を発表、1969年4~6月に世界的に大ヒットした。
 1970年にJimmy Cliffが作曲した「You Can Get It You Really Want」を歌ってヒット、「007(Santy Town)」が1972年に公表された映画『The Harder They Come』のサウンド・トラックして使用された。

King of Ska
007(Shanty Town)
It’s a Shame
Sabotage
Israelites
You Can Get It You Really Want



Ken Boothe(1948~)
 1948年3月22日にジャマイカのキングストンのDenhamTownに生まれる。ボーカリストであった姉Hyacinthの影響を受けて音楽に関心を抱く。友人Stranger Coleとデュエット“Stranger and Ken”を組んでレコード会社のオーディションに合格し、「Unos Dos Tres」、「Hush Baby」を制作、1963年には「Last Love」、「Thick in Love」を発表。同年から1965年までに「World’s Fair」、「Hush」、「Artibella」を制作。また、1966年にはRoy Shirleyとデュエット“Roy and Ken”を結成して「Paradise」を発表。
 同年にはソロ活動を開始し、「The Train Is Coming」(The Wailersがバック・コーラス)、「Lonely Teardrops」を制作。さらに、「Freedom Street」、「Why Baby Why」を発表。 
 1974年にアルバム『Everything I Own』を制作、同年「When I Fall in Love」を発表。1976年にアルバム『Who Gets Your Love』を制作。1995年に「The Train Is Coming」が映画『Money Train』のサウンド・トラックに使用されて復活。2003年にジャマイカ政府から音楽への貢献を表彰された。

The Train Is Coming
Freedom Street
Blood Brothers
Who Gets Your Love
Let’s Get It On



Black Uhuru(1972年結成)
 Derrick “Duckie”Simpsonを中心としてGarth Dennis、Don Carlosが1972年にキングストンのWaterhouse地区で結成されたレゲエ・グループ、当初はUhuru(スワヒリ語で「自由」の意)と称した。初作はCurtis Mayfieldのバージョンをカバーした「Romancing to the Folk Song」で、次に「Time is on Our Side」を発表したがヒットせず。
 後にThe JayesのErrol NelsonとMicael Roseが加わってBlack Uhuruと称するようになる。1977年にNelsonがthe Jayesに戻るとSandra“Puma”Jonesが加わわった。この時期、Sly and Robbireと協力関係も保ち、「General Penitentiary」、「Guess Who’s Coming to Dinner」、「Shine Eye Gal」等の数々のヒット曲を生み、1980年に2枚目のアルバム『Showcase』に収録された。1981年には「Wood for My Fire」、「Rent Man」を含む『Sinsemilla』に収録された。
 1984年にアルバム『Anthem』が発表された。この時期にRoseが離脱しJunior Reidが代わって入り、アルバム『Brutal』が制作された。以後、グループは分解し始め、Jonesが健康状態悪化で離脱して代わりにJanet“Olafunge”Reidが入ったが、米国ビザが取得できずに離脱するなどしたため、Shimpsonだけが残ることになった。2008年にアルバム『As World Tums』を発表。

Love Crisis
Black Sounds of Freedom
Showcase
Sinsemilla
Positive



Sugar Minott(1956~2010)
 1956年5月25日にキングストンに生まれる。本名はLincoln Barrington Minott。1969年にThe African Btorhersのメンバーとなる。The Abyssiniansの影響を受けラスタファリズムの傾向を示す。1974年には「Mysterious Nature」、「No Cup No Broke」を制作、さらに「Vanity」、「Hang On Natyy」、「Mr.DC」、「Jah Jah Children」のヒット曲を多数発表して、これらをアルバム『Live Loving』に収録した。1979年にはアルバム『Showcase』、『Ghetto-ology』を制作、1980年には『Roots Lovers』を発表したが、「Hard Time Pressure」に代表されるように、徐々にジャマイカにおけるよりもイギリスにおいて名声を博すようになった。2010年7月に逝去。享年54歳。

Herbman Husting
No Vacancy
African Girl
Lovers Rock
Jamming in the Street
Buy Off The Bar



Sly and Robbie(1970年代結成)
 1970年代半ばに、Skin FleshのドラマーであったSly Flesh(1952年5月10日、キングストン生まれ)と、AggrovatorsのベーシストであったRobert Shakespearが結成。1976年にThe Mighty Diamondsのアルバム『Right Time』の制作に協力。1979年までPeter Toshのバンドに協力して『Equal Rights』、『Bush Doctor』、『Mystic Man』、『Live at Montreux』、『Wanted Dread and Alive』の5枚のアルバムを制作。
二人はレゲエにコンピュータ化したリズムを入れるなど積極的に刷新に取り組んできた。1990年代から2000年代前半にはダンスホール・レゲエとラテン系ミュージックをヒュージョンさせた「La Trenggae」を創造。
2003年にアルバム『Last Night Tales:Sly & Bobbie』を発表。Elephant ManやBuju Bantonらの育成にも尽力。

Superthruster
Hey
Under Meath It All



Third World(1973年結成)
 1973年にMichael “Ibo”Cooper、Stephan “Cat”Cooper、Richard Daly、Irvin”Carrot”Jarettの4名が結成したルーツレゲエ系のグループ。デビュー・アルバムは1974年に発表した「Railroad Track」。The Wailersと行動をともにすることが多かった。1976年にデビュー・アルバム『Third World』を発表したが、その中にシングル「Massagana」(The Abyssiniansの曲)が収録されていた。1977年には2枚目のアルバム『96° in the Shade』(1865年に発生したMorant Bay蜂起がテーマ)を制作、1978年には3枚目のアルバム『Journey to Addis』がヒット。1989年に“Carrot”が離脱した後、5名のメンバーでアルバム『Sence of Purpose』、『Reggae Ambassador』、『Forbidden Love』、『Commited』を次々に発表。

Railroad Track
96°in the Shade
Now That We Found Love
Cool Mediatation
Street Faighting



Jah Cure(1978~)
 1978年10月11日に、ジャマイカのハナーバーに生まれ、キングストンで育つ。本名はSiccature Alcock。1997年にSizzlaとデュエットで発表したシングル「Rey de la Jungle」でデビュー。1998年、モンテネグロ湾をワゴン車で走行中に逮捕され、暴行、強奪、武器不法所持で起訴される。1999年4月に行われた裁判で15年の禁固刑を宣告される。獄中から3枚のアルバムと多数のシングルを制作。2000年にアルバム第1作目の『Free Jah’s Cure』が発表され、その後2003年にアルバム『Ghetto Life』、2005年に『Freedom Blues』を発表した。現在は保釈されており、2009年にはアルバム『Universal Cure』を発表した。

Ghetto Life
Songs Of Freedom



Richie Spice(1971~)
 1971年9月8日にジャマイカのSt.Andrewに生まれる。デビュー・シングル「Killing a Sound」の後、「Shine」を制作。1999年にデビュー・アルバム『Living Ain't Easy』を制作。2枚目のアルバム『Universal』にはシングルの「Earth a Run Red」、「Living Ain't Easy」、「Time So Rough」、「Grooving My Girl」を収録。2004年にアルバム『Spice In Your Life』を、2007年に同『In The Streets to Africa』、2008年に同『Gideon Boot』、2009年に同『Street Life』、2011年に同『Book Of Job』を制作。

Earth a Run Red
Youth Dem Cold
Groovin My Girl
Black Woman
Marihuana



Lee “Scratch”Perry(1936~)
 1936年3月20日にジャマイカのKendalに生まれる。1950年代より貧困状態の中でレコード会社数社で次々に働きながらシングルの録音を開始。1968年に自らのレーベルUpsetter Recordsを設立。デビュー・シングル「People Funny Boy」を発表。1970年代にはヒュージョン系の曲風で著名となり、1973年にはDubを創出。その間、Bob Marley &Wailers、Junior Byles、Jacob Miller、The Heptones、The Congos、Max Romero、Junior Delgadoらと協力。

People Funny Boy



King Tubby(1941~1989)
 1941年1月28日にジャマイカのOsbourne Ruddockに生まれる。1960~70年代に音響効果を通じてDubの創造に貢献。1968年にプロデューサーのDuke Reidのためにレコード制作を開始、主にB面の音楽創出で方法論を確立。プロデューサーのLee Perry、 Bunny lee、 Augustus Pablo、 Vivian Jackson、Johnny Clarke、 Cornell Campbell 、Linval Thompson、 Horace Andy、 Big Joe、 Delroy Wilson、 Jah Stitchらと協力。
 1989年2月6日、自宅で数名の暴漢に襲われて死亡。享年48歳。



Lincoln Thompson(1949~1999)
 1949年6月1日にジャマイカに生まれる。1974年にアルバム『Humanity』を発表して以後、1979年に『Experience』と『Harder na Rass』、1980年に『Natural Wild』、1982年に『Ride With The Rsses』、1983年に『Rootsman Bues』、1997年に『21st Century』を発表。1999年1月23日に癌で死亡。享年50歳。

San Salvador
Nobody Here But Me
Jah Love
Cosmic Silence
Rootsman Blues
Hard Times Come Again



Barrington Levy(1964~)
 1964年4月30日にジャマイカの西部キングストンに生まれ、幼年時代はClarendonで過ごす。別名Mellow Canary。青年時代にはDennis Brownの影響を受ける。14歳から音楽活動を開始。いとこのEverton DacresとThe Mighty Multitudeを結成。
 1975年にデビュー・シングル「My Black Girl」をインフォーマルな形で録音し、米国やイギリスに送る。プロデューサーのHenry ”Junyo“ Lawesが発掘。1979年にChennel OneがRoots Radicsバンドとともに録音を始め、このときから事実上Dancehallミュージックが始まる。1980年に「A Yah We Deh」、「Shine Eye Gal」、「Moonnight Lover」が収録されたアルバム『Bounty Hunter』をJah Life レーベルから発表。Greenslevesと共作したアルバム『Englishaman』を発表。その後シングル「Sister Carol」、「Look Youthman」、「Eventide Fire A Disaster」、「Under Me Sensi」、「Black Roses」、「My Wooman」、「Money Move」、「Mary Long Tongue」を発表。同年にアルバム『Robin Hood』を発表。ダンスホールのDJの間で「王」と呼ばれる。
 1984年にシングル「Under Mi Sensi」が大ヒット、レゲエのクラシックとなる。次に「Murderer」、「Prison Oval Rock」を発表。イギリスでも好評を博し、ロンドンの「100 Club」などの場で公演。1985年には「Here I Come」を制作、イギリスのテレビにも登場。同年、イギリスで「ベスト・レゲエ賞」を受賞。1987年から1995年までReggae Sunsplashで連続公演。1980年代にシングル「My Time」や「Too Experience」を制作。1994年にDJ Beenie Manとともにシングル「Two Sounds」、「Ander Mi Sensi」を制作。Mega Bantonとシングル「She’s Mine」を制作、イギリスではCounteractionの名でアルバムを制作、その中の「Living Dangerously」が大ヒット。1996年にアルバム『Time Capsule』を発表。

My Black Girl
A Yah We Deh
Shine Eye Gal
Sister Carol
Look Youthman
Eventide Fire Disaster
Murderer
Ander Mi Sensi



Horace Andy(1951~)
 1951年2月19日にジャマイカのキングストンに生まれる。1960年代末から音楽活動を開始。主要ヒット曲は「Government Land」、「You Are My Angel」、「Skylarking」。宗教や社会正義に関係する歌詞が多い。1990年代半ばからは、Trip-HopMの先駆的ミュジッシャンであるAssive AttackやEasy Star All-starsとの協力関係が多い。

Government Land
You Are My Angel
Skylarking



Johnny Clark(1955~)
 1955年1月12日にジャマイカのキングストンに生まれ、同市内のゲットーであるTown Whitfieldに育つ。1971年、17歳の時にタレント募集イベントでプロデューサーのClancy Ecclesと出会い、最初のシングル「God Made the Sea and the Sun」を録音、過ぎにRupie Edwardsと協同するようになり、1973年に「Everyday Windering y Julie」を、1974年にはClarleと組んで「Jump Back Baby 」を発表。その後、Bunny Leeや彼のバンドであるThe Aggrovatorsと協力関係を結ぶ。
 Johnnyの曲の多くはラスタファリ運動の信念に対する関心や、暴力に反対する姿勢、マリファナの合法化を求める傾向を示した。



Elephant Man(1977~)
 1977年9月11日、ジャマイカのキングストン生まれ。本名はO'Neil Bryan。Elephannt Manの名の由来は耳が大きいため、幼児期は「ダンボ」と呼ばれていた。音楽活動は、Scar Demグループのメンバーとして音楽活動を開始。その後ソロ活動を開始。  2004年にピューマ社がオリンピックの商業キャンペーンのために彼のシングル「All Out」を利用。2007年にBad Boy Recordsと契約、シングル「Let's Get Physical」、「Five-O」を作成。  2008年の北京オリンピックではElephant Manが作ったダンス「La Danza Gully Creepee」をジャマイカのUsain Boltが躍ったことで知られる。Elephant Manの曲が同性愛者に対する暴力行為を求めている傾向があることが批判された。2003年にはイギリスにおいて、性別差別告発グループがElephant Man、Bounty Killer、Beenie Manはヘイト・クライムに関する法律違反であるとして身柄拘束と起訴を求めたが、O'Neil Bryanは釈放された。

Pon de River
Jook Gal
Five-O
Whine Up(Kat Delunaと共演)



Beenie Man(1973~)
 1973年8月22日にジャマイカのキングストンに生まれる。1983年にデビューアルバム『The Invincible Beenie Man:The Incredible Ten Years Old DJ Wonder』を発表、その後1992年に同『Cool Cool Rider』、1994年に同『Defend It』、『Guns Out With Bounty Killer』を、1995年に『Blessed』を発表。1997年には『Many Moods Of Moses』でグラミー賞にノミネートされた。1999年にはアルバム『Ruff N Tuff』、『The Doctor』、『Y2K』、2000年に『The Art & Life』、『Trendsetter』、2001年には『Youth Quake』、2002年には『Tropical Storm』、2004年に『Back To Basics』、2004年には『Cool Cool Rider』と『Kingston To King Of The Dancehall』を発表した。
同性愛者に敵対的な歌詞が人権擁護団体から批判される傾向がある。2006年7月18日にはニューヨークで予定されていたAIDS撲滅支援コンサートにBeenie Manが出演する予定であったためキャンセルされるという事態が発生した。2007年にはバロセロナにおいてが出演するコンサートでBeenie Manに対して刺激的な歌を歌わないよう求められた。2011年にはスペインでの2回の公演では何らの問題も起こらず、ヨーロッパ公演も無事に実行された。

Slam
Dancehall Queen
Who Am I
Girls Dem Suga
Dancehall Champion



Bounty Killer(1972~)
 1972年6月12日にジャマイカのキングストン近郊のSeaview Gardenに生まれる。本名は、Rodney Basil Price。幼児期に街頭を歩いているときに銃撃戦に巻き込まれて負傷。その時にBounty KillaあるいはBounty Killerに変更する決意。
 1990年代初頭、デビュー・シングル「Coppershot」を制作、ニューヨークのレゲエ界の大物であるJohnny Wonderに気に入られる。1993年のStingフェスティバルに出演、1997年の同フェスティバルでは他の出演者と摩擦を起こして殴り合い。特に、Beenie Manとの敵対関係は有名。
 1998年に映画『Blade』のための曲「Deadly Zone」の制作を求められたが、最終的には使用されずに終わる。この時期、「Defend the Poor」、「Mama」、「Babylon System」、「Down Da Ghetto」を制作した。 2006年11月にアルバム『Nah No Mercy』を発表。
 2003年にイギリス警察がBounty Killer を逮捕したため、コンサート2本をキャンセルせざるを得ない状況になる。Bounty Killerの曲が同性愛者、Bisexual、Transexualの殺害を教唆する内容を有したため、ジャーナリズム界が騒ぎ、また人権団体のOutRage!が告発した。2006年7月には、離婚した元妻に対する暴行の廉で逮捕される。2009年2月にはキングストン市内で赤信号9ヶ所連続無視したたで逮捕。同年酒気帯び運転の容疑をかけられた時にアルコール検査を拒否したことで逮捕。

Guilty
Badmind Dem A Pree
Hip Hopera



Morgan Heritage(1990年結成)
 1990年にジャマイカのスパニッシュタウン出身のDenroy Morgan(1954年生まれ)の29人の子供のうち5人でよって結成された。Denroyは1965年に音楽活動を開始、19歳の時に米国に移住してMad Creatersを結成、その後Black Esglesを結成、「I'll Do Anything For You」、「Reggae」、「Last Change」をヒットさせた。
1993年にMorgan家はジャマイカに移住。Una(1973年生まれ)、Roy(1976年生まれ)、Peter(1977年生まれ)、Lukes(1977年生まれ)、Mr.Mojo(1981年生まれ)の5人組となる。1997年以降2007年までに『Don’t Haffi Dread』、『One Calling』、『Full Circle』、『Drop It Riddm』、『More Teachings』、『Three in One』、『Protect Us Jah』の7枚のアルバムを発表。

I'll Do Anything For You
Let’s Make Up
Set Yourself Free
One Calling
Move On
Perfect Love Song



Max Romeo(1944~)
 1944年11月22日にジャマイカのSt.Ann’sに生まれる。ルーツ・レゲエ系ミュージッシャン。ゴスペル、ソウル、ゲットー住民の叫びを宗教的に体現する音楽を創造。1970年代末から音楽活動を開始し、アルバム17枚を発表。1972年のジャマイカでの選挙に際して、『Mini Skirt Vision』、『Let The Power Fall』を発表して好評を博す。最大のヒットアルバムは『Revelation Time』(1975年)と、『War Inna Babylon』(1976年)。

Eating Competition
Sixpense
Babylon Burning
Three Blind Mice
The Coming of Jah



Augustus Pablo(1954~1999)
 1954年6月21日ジャマイカのSt.Andrewに生まれる。別名Horace Swaby。197173年にAquarius Recordsから「Haggi Haggi」、「East of the River Nile」、「Song of the East」、「The Red Sea」を発表。1977年にこれらを収録したアルバム『East of the River Nile』を制作。 1979年末には「Black Star Liner」など多数のヒット曲を発表。1976年にはDubのアルバム『King Tubby Meets Rockers Uptown』を制作、1983年には『Africa Must de Free』、1979年には『Original Rockers』を発表。 1980年代には、1986年にアルバム『Rising Sun』を発表した他、「Ragamuffin Year」、「Humble Yourself」、「Far Far Away」等のヒット曲を制作、1987年にはアルバム『Rockers Come East』を制作、1990年には『Blowing the the Wind』発表。
癌を患っていたがRastafariの信条から医学的治療を拒否、そのため1999年5月18日に病状が悪化して死亡。享年45歳。死後2001年に『Jah Inspiration』、2008年には『The Mystic World of Augustus Pablo』等が発表された。

East of the River Nile
Highest Region
Satta Dub
Drums to the King



Burnig Spear(1945年~)
 1945年3月1日、ジャマイカとSaint Ann’Bay生まれ。本名はWinston Rodney。ラスタファリ傾向の強いルーツ系レゲエ・ミュージシャン。マーカス・ガーヴィとボブ・マーリーから強い影響を受け、アフリカ帰還を強く主張する傾向がある。当初は初代ケニア大統領のケニヤッタの名称を名乗っていたRodneyをリーダーとするバンドが名称を変更した際にBurning Spearの名称を使用したが、その後はRodneyの個人名として知られるようになった。2002年に妻のSonia RiodneyとともにBurning Spear4 Recordsを設立した。

Marcus Garvey
Marcus Children Suffer
Resistance
Jah Is Real
Calling Rastafari



The Ethiopians(1968年結成)
1968年にジャマイカにおいてLeonard”Sparrow”Dilcon(1942年12月9日Port Antonio生まれ))、 Stephen Taylor、 Aston Morrisの3名が結成したスカ、ロックステディ、レゲエのバンド。主に1970年代にヒット・アルバムを発表。

Reggae Power
Dread Prophecy
Woman A Capture Man
Slave Call
Clap Your Hands



The Abyssiniens(1969年結成)
1969年にジャマイカにおいてBernard Collins 、Donald Menning、 Linford Manningの3名が結成したラスタファリ色の強いルーツ系レゲエ・バンド。エチオピア語で歌われる「Sattta Massagana」等が有名。

Satta Massagana
Mas Gan
Arise



Hugh Mundell(1962年~1983年)
 1962年6月14日、ジャマイカのイースト・キングストンに生まれる。父親は有名弁護士。高校時代から後にレゲエ・ミュージシャンとなるWinston McAnuff、Earl Sixteen Daley、 Wayne Wadeと交友。家族の友人であったBoris Gardinerがレゲエ界に誘導。Gardinerが紹介したJoe GibbsのスタジオでWinston McAbuffが「Malcolm X」を録音。Mundellはそのスタジオで「Where Is Natty Dread」を制作、またAugustusPabloと知り合う。MundellはJah Laviの名で12曲を作曲したが、公の場で公演することは少なかった。1983年10月14日にキングストン市内Grant’s Pen Avenueで自家用車内に座っていたところを暴漢に襲われ、射殺されて死亡。享年21歳。

King Of Israel
Africa Must Be Free
My、My
Let All Unite
Why Black Man Fuss & Fight



Sean Paul(1973年~)
 1973年1月9日、ジャマイカのキングストンに生まれる。本名はSean Paul Francis Henriques。父方の祖父はポルトガル出身のユダヤ系Sefardi、父方の祖母はカリブ・アフリカ系、父親は水泳選手で母親はイギリス系と中国系を引くジャマイカ人家庭出身の高名な画家。Sean Paul も13歳から22歳まで水上ポロのナショナル・チームのメンバーであった。現在のジャマイカ工科大学の前進となる専門学校でホテル経営を学ぶ。
 2000年にプロデューサーのJeremy Hardingと出会って音楽活動を開始、シングル「Baby Girl」を制作、アルバム『Stage One』を発表。
 2002年に「Gimme The Girl」が、2003年には「Get Busy」がヒット、同年アルバム『Dutty Rock』を制作。この時期、Tego Calderonのアルバム『Promo Only』で協力、またNina Skyと「Touch My Body」で、Wisin&Yandelと「Let’s Get Higt」で協力。2005年9月に3枚目のアルバム『The Thirty』を制作、シングル「Temterature」がヒット。Daddy Yaneeのアルバム『Barrio Fino』の制作に協力。2007年に4枚目のアルバム『Imperial Blaze』を制作したが発表は2009年まで延期されたが、シングル「So Fine」がヒット。2012年1月にはビデオ『Got 2 Liv.U』を同年2月にビデオ『Hold On』を制作。

Gimme The Girl
Get Busy
Temperature
So Fine



John Holt(1947年~)
 1947年7月11日、ジャマイカのキングストン生まれ。12歳の時にタレント・コンテストに参加、1963年にデビュー・シングル「I Cried a Tear」を発表。“The Patagons”のリード・ボーカルになり、「Alli Baba」、「Tonight」、「I See Your Face」、「The Tide Is High」をヒットさせる。1970年代初頭にはレゲエの代表的ミュージシャンに。
 1973年にアルバム『Time Is The Master』を発表。同年にBilly JoelやDiana Rossのカバー曲からなるアルバム『1000 Volts of Holt』を制作。

I Cried A Tear
Man Next Door
The Tide Is High
Alli Baba



Israel Vibration(1970年頃結成)
 Albert”Apple Gabriel”Craig(1952年生まれ)とCecil “Skeleton”Spence(1952年生まれ)、Lascalle “Wiss”Bulgin(1955年生まれ)が幼年期にはしか流行中のジャマイカの診療所で知り合い、1970年頃にIsrael Viblation Vibratesを結成、その後Isreal Vibalationに改称。数年間は街頭で演奏していたが、1975年に「Bad Intention」を制作、しかし発表されず。1976年にデビュー・シングル「Why Worry」を発表してヒット。1977年にシングル「The Same Song」を発表、翌78年に同名のアルバムを発表。1980年に2枚目のアルバム『Unconquered People』を制作。3枚目のは『Why You So Craven』を制作したが、発表せず。
 1982年に専門的治療を求めてニューヨークに移り、ジャマイカのダンスレゲエ運動から離脱してそれぞれソロ活動を開始。1985年にBulginがアルバム『My Shining』を制作した後、1987年までに3人はIsrael Vibalationを再結成。再結成1枚目のアルバム『Strength Of My Life』を制作。1997年にCraigは離脱して、1999年にアルバム『Another Moses』を発表。BuginとSpenceがIsareal Viblationとして活動を継続。

Bad Intention
My Master's Will
Why Worry



Buju Banton(1973年~)
 1973年7月15日、ジャマイカのキングストン近郊に生まれる。本名はMark Anthony Myrie。父親は繊維工場労働者で母親は露天商。15人兄弟の末っ子。逃亡奴隷の直系子孫。Marcus Garveyの思想の信奉者。
 12歳の時に“Gargamel”の名で歌い始める。1986年にプロデューサーRobert Frenchと知り合いClemente Irieの援助でデビュー。1987年にデビュー・シングル「El Soberano」を発表。1988年に15歳でヒット曲となった「Boom Bye Bye」を発表。

Stamina Daddy
Mr.Mention
Rudeboys Inna Ghetto
Too Bad
I Wonder



Inner Circle(1968年結成)
 1968年にIan Lewis(1956年11月1日生まれ)とRoger Lewis(1956年6月29日生まれ)兄弟によって結成されたジャマイカのレゲエ・バンド。1974年にTrojan Recordsから最初のアルバムを発表、1979年にアルバム『Everything Is Great』を制作。ボーカルのJacob Millerの影響が強く、Bob Marley以上の人気を誇ったが、1980年3月23日にJacobが交通事故で死亡。Jacobの死が原因でバンドは分裂、1982年にアルバム『Something So Good』を制作、1986年にLewis兄弟は新しいボーカルCalton Coffieを加えて新作『Black Roses』を制作。1989年には『Bad Boys』を制作して「レゲエバッドボーイズ」を自称。1992年にアルバム『Sweat』がヒット。1995年にCaltonが病気になって休業、回復したものの分離してソロ活動を開始。代わってKnis Bentleyが加入。最近ではDon Omarと『Fly Away』を共作し、レゲエとレゲトンの融合を図っている。

Summer Jammin
Sweat
Games People Play
Bod Boys



Dennis Brown(1957~1999)
 1957年2月1日、ジャマイカのキングストン市内のOrange Streetに生まれる。本名はDennis Emanuel Brown。父親は俳優。生家の近くにSkaのスタジオが多数存在していた。Dennisは友人たちと街頭でビールは箱の上で歌い始める。やがて、Marcia Griffith、Stranger Cole、Tommy Cowan、Byron Lee、Ken Bootheと共演し始め、レゲエの成長プロセスに立ち会う。その後、Coxsone Dobbと知り合ったことがきっかけとなって、1969年に11歳で「No Man Is An Island」を発表してヒット。1972年にシングル「Money In My Pocket」をヒットさせ国際的にも名を知られる。当初はソウルが基調であったがル、その後ルーツ・レゲエの傾向を強める。17歳の時に肺を病み、1年間休業を余儀なくされたが、1976年に復帰し、1976年には「Wolf and Leopard」をヒットさせて、国際的に知名度を定着させた。1970年代末にはBob Marleyと並んでラスタファリ文化の双璧と評価された。Bob Marleyの死後はLuciano等とともにルーツ・レゲエの中心と評価されたが、1990年代には過労による体調不良と活動低下の傾向を強めた。1999年7月1日に病状が悪化し呼吸困難で入院したが回復せず死亡。享年42歳。

Bless Me Jah
Love Jah
No Man Is An Island
Money In My Pocket



Keith Hudson(1946~1984)
 1946年、ジャマイカのキングストン生まれ。別名「Dark Prince of Reggae」と呼ばれる。学校時代にBob Marley、Delroy Wilson、Ken Boothらと構内でコンサートを開催。14歳の頃からDownbeat Sound Systemの影響を受ける。卒業後は歯科医院で働きながら資金を貯め、1968年に音楽活動を本格化させ、1970年に作品制作を始め、Augustus Pabloの作品やThe Abyssiniansの「Satta Massagana」の制作に関わる。また、イギリスで最初には発表されたDubの曲である「Declaration of Rights」も制作。最初のアルバム『Entering The Dragon』のヒット後、イギリスに移住してブリティッシュ・レゲエの確立に貢献。1976年にニューヨークに転住。ソウル調のアルバム『Too Expensive』はヒットしなかったため、再びレゲエに復帰。1978年にアルバム『Rasta Commuication』を、1979年に『From One Extreme to Another』を発表。しかし、1980年代にはダンスホール・レゲエの傾向からは隔絶。1984年11月14日に癌が原因で死亡。享年38歳。

Torch Of Freedom
Too Expensive
Rasta Communication
Nuh Skin Up Dub



Toots and the Maytala
Frederick “Toots”Hibbert(1945年ジャマイカのClarendon生まれ)がリーダーとして結成。Tootsは教会でゴスペルを歌いながら成長、1961年に首都にキングストンに移転し、Henry”Rakeigh”Gordon Nathaniel “Jerry”McCarthyと知り合い、トリオのThe Maytalsを結成。1962~63年にアルバム『Never Grow Old----pれ銭tingてぇMaytals』を制作。1965年には2枚目のアルバムを制作。1966年にHibbertが麻薬所持の廉で逮捕され、1967年まで収監された。Hibbertの出所後、3人は再結集し“Toots and The Maytals”を名乗る。中国系ジャマイカ人であるプロデューサーであるLeslie Kongの協力を得て、「54-46 That’s My Number」、「Do The Reggae」(1968年)、「Pressure Drops」、「Monkey Man」をヒットさせる。1972年には「Pomp & Pride」がヒット。同年に映画『Harder They Come』に出演。「Sweet and Dandy」と「Pressure Drop」の2曲がサウンドトラックに使用される。
 1971年にLeslie Kongが死亡した後、Kongのサウンド技師であったWarwick Lynと組んで1973年には「Funky Kingston」、1975年には「Reggae Got Soul」をヒットさせる。1978~80年にはイギリスでReggae-Punk やSkaが再ブームになったため、The Maytalsの曲がカバーされることが増えた。1980年代~90年代にも活動を継続、2004年にはアルバム『True Love』を発表してグラミー賞の最良レゲエ・アルバム賞を受賞。

Sweet and Dandy
Bam Bam
Reggae Got Soul
Pressure Drop



The Aggtovators
(1975年結成、1983年解散)
 プロデューサーのBunny Leeが、1960年代末に開店したレコード店の名前を種々のバンドに付けたが、その中からJackie Mittoo、 Sly and Robbie、Tommy McCook、Aston Barretなどのミュージシャンが育つ。その他、Carlton”Santa”Davis、Earl”China”Smith、 Snsel Collins、Bernard”Touter”Harvey、Tony Chin、Bobby Ellis、Vin Gordonも一時的に参加していた。主に、ヒット曲のB面の曲を演奏。

Natty Dub
Sun Is Shining Dub
Jah Jah Dub
Kaya Dub



Dave and Ansell Collins(1971年結成)
 1971年にDave Barker (David John Crooks,1947年10月10日、キングストン生まれ)とAnsell Collins(1949年、キングストン生まれ)が結成したデュエット。2人は1960年代後半にプロデューサーのLee”Scratch”Perryと活動。結成後、「Double Barrel」を発表してヒット。次に「Monkey Spanner」がヒット。その後、活動を分離したが、1981年に復活。しかし、ヒット作は生まれず。1986年にAnsell Collinsは映画『Club Paradise』に出演。2012年位2人は数回のライブ・ショーで共演。

Double Barrel
Monkey Spanner
Ten To One
That Girl



The Upsetters(1969年頃結成)
 プロデューサーのLee “Scratch”Perryがハウス・バンドに与えた名称。”Upsetter”はPerryのニックネームに由来する。メンバーは、Alva Lewis、Glen Adams、Aston””Family Man BarrettとCarlton BarrettのBarrett兄弟。その後、同兄弟は1972年にBob MarleyのThe Wailersに参加。その後、The Upsettersのメンバーは、Boris gardiner、Mickey Richards、Sly Dunber、Benbow creary、Earl”China”Smith、Winston Wright、 Keith Sterlongとなる。

I Chase the Devil
War Ina Babylon



Ras Michael & the Sons of Negus
(1960年代初頭結成)
 1960年初頭にMichael Goerge Henry(1943年、ジャマイカのキングストン市内のSt.Mary生まれ)がラスタファリアン・グループであるThe Sons of Negusを結成。Michaelは1960年代半ばに独自のレーベルであるZion Disc社を設立、「Lion of Judah」、「Ethiopian National Anthem」、「Salvation」を発表してヒットさせる。1970年代初頭には「Dadawah Peace And Love」を制作。1975年には」「Rastafari」を発表、1976年には「Tribute To The Emperor」、1978年には「Kabir Am Lak」を制作、1979年には「Rastafari In Dub」を制作。1980年には「Promised Land」、1982年には「Revelation」、1988年には「Zion Train」、1990年には「Know How」を発表。

Rastaman Chant
Ethiopian National Anthem
Pretty Little Face
Pretty Little Face
Zion Land



The Congos(1970年代半ばに結成)
 “Ashanti”Roy Johnson(Reydel Johnson、1947年ジャマイカのHanovar生まれ)とCedric Myton(1947年ジャマイカのSaint Catherine Parish生まれ)が1970年代半ばに結成したレゲエ・ボーカル・グループ。後にWatty Burnett(1950年代初めにジャマイカのPort Antonio生まれ)が参加。Mytonは1960年代にThe TarzansやRas Michaelのバンドに参加。Ashanti とMytonのデュエット時代にLee”Scratch”Perryのために「At the Feast」を制作。1977年にアルバム『Heart of the Congos』を制作。1990年代半ばにMyton、BuenettとLindburgh Lewisの3名によって再編される。2005年にMytonはアルバム『Give Them the Rights』、2006年に『Fisherman Style』を発表。2009年3人がPerryを加えてアルバム『Black in the Black Ark』を制作。

Chain Gang
Solid Foundation
Youth Man
Fisherman



Frankie Paul(1965年~)
 1965年ジャマイカ生まれ。本名はPaul Blake。盲目で生まれたが生後手術によって若干視力が回復。通学していた学校をStevie Wonderが訪問したことからStevieを敬愛。年に数枚のアルバムを制作。1994年からThe Gambiaに居住。

Sarah
Worries in the Dance



Chronixx(1992年~)
 1992年10月10日、ジャマイカ生まれ。本名はJamar Rolando McNaughton Jr。5歳の時に「Rice Grain」を作曲。スパニシュタウンのSt.Catherine High Schoolに学ぶ。11歳の時から音楽活動を本格開始。2012年頃から知名度が高まる。2013年にヒット曲「Smile Jamaica」、「Here Comes Trouble」を連発。2013年にはケニアで公演し、総選挙実施時に「平和大使」に任じられる。2014年にアルバム『Dreaed & Terrible』を発表してヒット。ニュー・ルーツ・レゲエ運動の中心的ミュージシャンとなる。

Mi Alright
Access Granted
Selassie Souljahz
Smile Jamaica