キューバのソン


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La Sonora Matancera(1924年結成)
 1924年1月12日、Valentín Canéのイニシタィブでキューバのマタンサス市」の自宅でTuna Liberalとの名で地元の同名の政党の要請で8名から成る楽団が結成される。1926年にEugenio Pérez Carlos Manuel Díaz Alonso”Caito”が加わり、名称がSepteto Sopranoに変更される。1927年にはCaitoの推薦でRogelio Martínez Díaz が加入、名称もEstudiantina Sonora Matanceraに変更された。同年、ハバナに移動し、RDAビクター社と契約し、1928年1月12日に「El Porqué De Tus Ojos」等の曲を録音。
 1935年にSonora Matanceraに改称。1938年にDámaso Pérez Pradoが離脱し、代わって1944年にSeverino Ramosが入り、1957年まで編曲を担当。1944年には「Pa’Congri」、「Coquito Acaramelado」を発表。同年、Arsenio RodríguezとLino Fríasが加入。1946年にディレクターであったValentín Canéが気管支を患い活動をRogerioに託し始める。この時期に「Se Formó la Rumbantela」、「Tumba Colora」、「El Cinto de Mi Sombrero」が好評を博す。1947年から1959年までSonora Matanceraの「黄金時代」と呼ばれる。
 1960年6月、Sonora Matanceraはメキシコ・シティに出国、以後キューバに帰国せず。キューバに残ったメンバーもいたが辞任。一方、Willy Rodríguez(1966年離脱)、Javier Vásquezらが新たに加入。1961年にはCelio González とLucho Bermúdezが加入。1980年代にはSonora Matanceraは徐々に独自性を失くすようになる。1989年7月1日にニューヨークのセントラル・パークとカーネギー・ホールで結成65周年記念公演を開催、Celia Cruz、Daniel Santos、Vicentico Valdéz、Alberto Bltrán、Nelson Pinedo、Celio Gutiérrez等の伝説的なミュージシャンが参加。1990年にはCaitoが死亡。その後も活動は継続、2009年にはアルバム『Hay Sonora Pa’rato』を発表。

El Porqué de Tus Ojos
Me Voy Pa' La Habana
El Yerberito Moderno
Sólo Cintigo
Pa’ la Paloma
Tu Voz



Arsenio Rodrígue(1911~1970)
1911年8月30日、キューバのマタンサス県Guira de Macurijes生まれ。トレス(3本ギター)の作曲家、ソン・モントゥノ(Son Montuno)の開始者。本名はIgnacio de Loyola Rodríguez Scull。幼少時に馬に頭を蹴られて盲目となる。Rubén Gonzaález、 Lily Martínez Griñán、Féliz Chapotin、Chocolate Armenteros、Chano Pozoらと楽団を結成。
 1950年代初頭に米国に渡航。治療による視力回復を望んだが実現できず、「La Vida Es Un Sueño」を制作。ヒット曲には「Bruca Maniguá」、「Mami,Me Gustó」、「El Divorcio」、「Fuego en el 23」、「El Reloj de Pastora」等」がある。1970年12月31日、ロサンゼルスで死亡。享年59歳。

La Vida Es Un Sueño
Mami,Me Gustó
El Diviorcio
Fuego en el 23



Miguel Matamoros(1894~1971)
 1984年5月8日、サンティアゴ・デ・クーバ生まれ。1925年にサンティアゴ・デ・クーバにてCiro Rodríguezや Rafael Cuetoとともに伝説的なTrio Matamorosを結成。アフロキューバ系のボレーロとソンを結合した音楽を創出。1928年に最初の作品を録音。1940年代MiguelがConjunto Matamorosを結成、SextetoやSeptetoからOrquestraの形態への進化を可能にする音楽表現を創出。1971年5月8日に死亡。享年76歳。

Lágrimas Negras
Promesa
Dulce Embeleso
Exixir de la Vida
La Mujer de Antonio



Celia Cruz(1925~2003)
 1925年10月21日にキューバのハバナのサントス・スアレスに生まれる。国立音楽学校に学ぶ。音楽学校で学ぶ一方でラジオ番組La Hora de TéやRadio García Serra等に出演。Gloria Matanceraや Sonora Caracasで歌い始め、海外公演するLa Mulatas de Fuegoにも参加し、その後Sonora Matanceraに参加した。
 1948年、CeliaはRodrigo Rodney Neyraが組織した舞踏集団Las Mulatas de Fuegoに歌手として契約、「La Mazucamba」、「Quédate Negra」、「El Cumbanchero」、「Mambé」、「Ya Se Acerca la Comparsa」、「Comparsa Barracón」、「Rumba Colombia」、「 Un Poquito de Tu Amor」等を発表。同年にGloria Matanceraとともに「Ocanasordi」、「Para Que Sufran los Pollos」を発表。1950年にはRafael Sotolongoの求めでSonora Matancaraと共演するようになった。このSonora Matanceraのトランペット奏者であったPedro Knightと知り合い、この時期に「Burundonga」、「Caramelos」、「Yerbero Moderno」、「Tu Voz」、「Ritmo Tambó y Flores」、「Pala Paloma」、「 Nuevo Ritmo」、「 Omelemkó 」、「Vallán Vallende」、「 La Sopa en Botella」等を発表した。
 1960年7月、Sonora Matanceraがメキシコと契約したことからCeliaもメキシコに出発、1962年にはSonoraとともに米国に渡り、ニューヨークで活動を開始。同年7月CeliaはPedro Knightと結婚。1965年にはSonora Matanceraとの共演を解消してソロ活動を開始。KnightもSonaraを脱退してCeliaのマネージャーとなる。1966年にCeliaはTito Puentesと協力し始め、1973年にはサルサに転じて、カーネギー・ホールでアフロ・キューバ音楽を披露、最初のサルサの曲である「Gracia Divina」を歌う。
 1974年には『Celia & Johnny』を、1977年にはWillie Colónの支援で『Salsa』を発表、1982年にはSonora Matanceraと再び『Feliz Encuentro』を発表。1987年にはサンタ・クルス・デ・テネリフェのスペイン広場でギネスによって最大の野外コンサートと認定された25万人規模のコンサートを実施。1990年にはキューバのグアンタナモでコンサートを実施、1993年には『Azúcar Negra』を発表、1997年にはメキシコのテレビ・ドラマ「El Ama No Tiene Color」に出演、1998年には「La Visa Es Un Carnaval」を収録した『Mi Vida es Cantar』を発表。1999年にはイタリアのテノール歌手Luciano Pavarottiの招きでコンサート「Pavarrotti and Friends」に参加。2000年には『Celia and Frends』を発表、2001年には『Siempre Viviré』を発表した。
 2002年には『La Negra Tiene Tumbao』を発表したが、同年メキシコ公演中に脳に癌の兆候が発覚し、同年末に手術を受けた。同年最後のアルバム『Regalo del Alma』を発表。2003年7月16日、ニュージャージャー州フォート・リーに自宅で死亡。享年78歳。

La Vida es Un Carnabal
Ritmo Tambó y Flores
Pa’la Paloma



Compay Segundo(1907~2003)
 1907年11月18日、キューバのシボネイ生まれ。本名はMáximo Francisco Repilado Muñoz。Armónicoギター(スペインの4弦ギターとキューバの3弦ギターの融合)の創設者。青年期からサンティアゴ・デ・クーバにてEl Cuarteto de Trovadores Orientalesや El Cuarteto Hatueyの結成に参加、また Miguel Matamorosの楽団にボーカルとして加入。1948年にLorenzo HierrezueloとともにデュエットLos Compadresを結成。この頃、Comapay Segundoの名が生まれる。このデュエットは1955年まで続く。他方、Repiladoは自分の楽団Compay Segundo y Sus Muchachosを結成。1997年にアルバム『Buena Vista Social Club』の制作に参加したことから知名度を高める。また、同名映画にも出演。2003年7月14日、ハバナにて腎臓病が原因で死亡、享年95歳

Chan Chan
Saludo,Compay
Sabroso



Ignacio Piñeiro(1888~1969)
1988年5月21日、ハバナ生まれ。幼少期は同市内のPueblo Nuevoで過ごす。Septeto Nacionalno創設者。ソンの重要な表現者として知られる。小学校卒業後、左官や葉巻売りの職を経た後、Los RoncosやTimbre de Oroに参加。1926年にMaría Teresa VeraのSexteto Occidenteのコントラバス奏者となり、ともにニューヨークに渡航。1927年にキューバに帰国してSexteto Nacionalを結成。Piñeiroが作曲した曲で好評を博す。1928年にトランペットを入れてSeptetoに変更。1955年にSeptetoを離脱してディレクターに復帰し、1969年3月12日にハバナで死亡するまで継続した。享年80歳。

Échale Salista
No Quiero Verte Mas
Las Cuatro polomas
Mentira,Salomé



Ibrahim Ferrer(1927~2005)
 1927年2月20日、キューバのサンティアゴ・デ・クーバ県San Luis生まれ。12歳の時に両親が亡くなったため孤児となり、街頭で働くようになる。14歳の時に従兄弟とともにLos Jóvenes del Sonを結成。約20年間にわたってPacho Alonsono楽団のメイン・ボーカルとして活躍、1955年にはChepín Chovén楽団の「El Platanal de Bartolo」を歌ってヒット。1957年にはハバナに移り、伝説的なRitmo Orientalに属し、Beny Moréと協働。その後、再びPacho Alfonsoと協力してLos Bucucosに加入。1991年に引退。しかし、1997年に友人たちに乞われて復活しAfro Cuban Stars楽団とともにアルバム『A Toda Cuba Le Gusta』を制作。同年、Compay Segundo、Rubén Gonzálezらとともに『Buena Vista Social Club』にも出演。2005年8月6日、ハバナの病院にて死亡。享年78歳。

Bruca Maniguá
Marieta
Dos Almas
Copla Guajira



Pacho Alonso(1928~1982)
 1928年8月22日、キューバのサンティアゴ・デ・クーバ生まれ。本名はPascasio Alfonso Fajardo。ソン・ボレーロ歌手、楽団指揮者。1945年に音楽活動を開始、1951年にMariano Mercerénの楽団にボーカルとして参加。同楽団にいたFernando Álvarez、Benny MoréとともにLos Tres Mosquerosを結成。1952年にサンティアゴ・デ・クーバでPacho Alfonso y Sus Modernistas楽団を結成。1956年、Pacho Alfonso y Sus Modernistasはハバナに移動、Pacho Alfonso y Sus Bocucosに改称。1950年代半ばにデビュー・アルバムの『Cha-Cha-Cha de la Reyna』を発表、1957年にはハバナに定着し、1958年末にElecto Rosell Cheplínが作曲した「Enfermo del Alma」、「Dame un Chance」がヒット。1960年には「La Pachanga」が大ヒット。また、「Una Noche en el Scheherezada」、「Que Me Digan Feo」もヒット。1967年にPacho Alfonso y Sus Pachucosに改称。以後、海外公演を増やして活躍、1970年代末に息子のPachitoga加入、Pachitoは1982年のPachoの死後はディレクターに就任。

Me Faltabas Tu
Dame La Mano
Tú No Sospechas



Abelardo Barroso(1905~1972)
 1905年9月21日、キューバのハバナ生まれ。本名はAbelardo Barroso Dargeles。キューバで最初に知られるようになったソン歌手。1925年からSexteto Habaneroの歌手として活躍。1926年にAlfredo BoloñaのSexteto Boloñaと共演。1927年にはIganacio PiñeiroのSepteto Nacionalのボーカルにもなり、多くの作品を残す。1930年にはSalmerónグループに加入して海外公演を行い、1931年に帰国してErnesto Muñozの楽団に加入。1933年にはOrestes LópezとともにLópez & Barrosoを結成。1935年にはSexteto Pininを結成、1939年にはMaravillas del Sigloに加入。1940年代にはキャバレーSans-Souciに1948年まで勤務し、同年国家警察のバンドの指揮者に就任。1950年代に自らのバンドであるOrquestra Sensaciónを結成、「En Guantánamo」と「Arráncame la Vida」がヒット。1969年に引退。1972年9月27日にハバナで死亡。享年67歳。

Un Brujo En Guanabacoa
La Hija De Juan Simon



Miguelito Cuní(1917~1984)
 1917年5月8日、キューバのピナル・デル・リオ県生まれ。本名はMiguel Arcángel Conill Cinill。通学しながら家計をつける仕事を掛け持つ。1932年、15歳の時にLos Caramelerosのボーカルとして音楽活動を開始。その後、郷里のEl Septeto Lira やEl Septeto Caridadのボーカルとして活躍。1938年にはハバナでArsenio Rodríguezの楽団に加入、またMelodías del 40やArcaño y Sus Maravillasでも活動。1940年代に2年間パナマで活動した後、1949年にニューヨークに移動してFélix Chappotínのトランペット楽団指揮者となる。ニューヨークでキューバ出身のBeny Moréらと協働した後。1956年にカラカスに渡ってLa Tribu楽団と協働、1960年にニューヨークに戻り公演活動を再開。
 1966年にキューバに帰国し、自分の楽団を結成。映画『Nosotros,La Música』に出演。キューバでは「Con Maña Se Rompe」、「No Hay Amor Sin Caridad」、「Viejo Socarrón」、「Nos Estamos Alejando」、「Canallón」、「Quimbonbó」、「Yo Sí Como Candela」、「Ay Qué Canuto」、「Alto Songo」などがヒット曲となる。1984年3月13日、ハバナで死亡。享年66歳。

Adversidad
El Infortunio
Convergencia
Yo Si Como Candela
El Diablo
Tu Falso Sentir
Alto Songo



Benny Moré(1919~1963)
1919年8月24日、キューバのラス・ビジャ州(現シエンフエゴス県)Santa Isabel de la Lajas生まれ。本名はBartolomé Maximiliano Moré Gutiérrez。別名El Bárbaro del RitmoあるいはEl Sonero Mayor de Cuba。18人兄弟の長男。母方の玄祖父は9歳の時に奴隷商人に捕えられたコンゴの王族Gundo。MoréはGundoが売られたプランテーションのオーナーの名字(Gundoはその後解放され94歳で死亡)。
 6歳の時からギターを弾き始め、学校を中退して16歳の時から音楽活動を開始。1936年にハバナに移動し露天商で暮らしを立てる。その後、一時的に郷里に戻ったが、1940年にふたたびハバナに戻りバーなどで歌って暮らしを立てたが、ラジオ番組に応募して優勝し、Mozo Borgelláの楽団Cautoに定職を得る。その後、Trío MatamorosのSiro Rodríguezに見出され、Miguel Matamorosの代わりにLos Matamorosに加入しボーカルとなる。1945年に楽団とともにメキシコに渡り、2大キャバレーであるMontparnasseやRío Rosaで演奏。楽団のキューバ帰国後もBennyはメキシコに残り、芸名もBenny Moréとなる。1950年にキューバに帰国、「Bonito y Sabroso」を制作しヒット。Batangaを開始したBebo Valdésと協力し、ラジオ番組でEl Barbaro del Ritmoと呼ばれる。その後、40人から成るLa Banda Grandeを結成。1954~55年に知名度を高め、1956~57年には海外公演も実施。1959年のキューバ革命に際してはキューバにとどまることを決意1960年にはキャバレーNight and Dayで活動し始めたが、海外公演は拒否。1963年2月19日にハバナにて肝硬変が原因で死亡。享年43歳。

Bonito y Sabroso
Santa Isabel de Las Lajas
Qué Bueno Baila Usted
Mata Siguaraya



Monguito(生年不詳~2006年)
 ソン・モントゥーノの伝統を受け嗣ぐ。1967年、Johnny Pachecoとともに『Pacheco Presents Monguito』を制作。1979年にはヒット「No Soy Mentiroso」を発表。

Perla Fina
Mi Son,Mi Son
Son De La Loma
Yo No Soy Mentiro



Ñico Saquito(1902~1982)
 1902年1月17日、キューバのサンティアゴ・デ・クーバ生まれ。本名はBenito Antonio Fernández Ortiz。15歳の頃から作曲に関心を持ち、トローバ表現者になろうとして野球選手への道を放棄。愛称のSaquitoは野球の捕球のように物事に接する姿勢に由来する。1920年代に音楽活動を開始し、Cuarteto Castilloに加入。その後、サンティアゴ・デ・クーバに戻り、Los Guaracheros de Orienteを結成。1950年代にはカリブ海諸国に海外公演を実施。1959年にキューバ革命が発生した後、1960年にÑicoは帰国したが、他のメンバーは海外に残留。

Te Ecribire Con Sangre
Mambe Rembe Rembo
Frutas del Caney
María Cristina






サルサ


La Sonora Ponceña
La Sonora Ponceñaはプエルトリコのサルサの代表的なグループである。ピアノ、ボーカル、トランペット、パーカッションを中心とした14人のメンバーによって構成されている。1944年にエンリケ・キケ・(パポ)・ルカ・カラバージョがプエルトリコのポンセでOrquesta Internacionalと名づけた音楽グループを結成した。しかしヒット作には恵まれず、それから10年後の1954年2月に、現在の名前であるLa Sonora Ponceñaと改名して新たにサルサ・グループとして音楽活動を始めた。その際、キケの息子であるパポ・ルカがグループのリーダーとなった。
1968年にリーダーのパポの息子であるエンリケ・アルセニオによる編曲を加えた曲、『Hacheros Pa’Un Palo』を収録したレコードを発表した。この作品がニューヨークで大ブレイクし、その翌年に発表した2作目のレコード『Fuego en el 23!』も同様にヒットを記録した。その後,カリブ地域におけるツアーやレコーディングなど精力的な活動を開始した。2012年までに33枚のアルバムを発表しており、ヒット・アルバムには、『Algo de Locura』(1970)、『Desde Puerto Rico a Nueva York』(1972)、『Sabor Sureño』(1974)、『La Orquesta de Mi tierra』(1978)、『Guerreando』(1992)、『Back to the Road』(2004)等がある。


*Hachero Pa' Un Palo



Papo Lucca(1929~2006)
1946年4月10日、プエルトリコのポンセに生まれる。本名はEnrique Arsenio Lucca Quiñones。サルサ・ラテンジャズのピアノ奏者。マルチインストルメンタル奏者。父親のEnrique “Quique”Lucca CaraballoとともにLa Sonora Ponceñaを結成。6歳の時から私立音楽学校で音楽を学び、入学と同時にピアノ奏者のRamón Fernándezからピアノを学ぶ。8歳でSonora Ponceñaで演奏し始め、11歳の時にFelipe Rodríguez y Davilitaのアルバム『Al Compas De Las Sonoras』の中でデビュー。14歳の時にSonora Ponceñaに正式に加入。
 1950年代にはテレビ番組でピアノをソロで演奏し、Obdulio Morales、Orquestra Panamericana、Machitoとも演奏。その後、プエルトリコ大学を卒業し、音楽専門学校に入学。1976年にSonora Ponceñaのアルバム『La Conquista Musical』に共演。同年、Fania All-StarsnのLarry Harlowと交代して加入し、1990年まで所属。1979年にSonora PonceñaとともにCelia Sánchezの影響下でアルバム『La Ceiba』を制作、またCeliaとテレビ番組『Salsa』で共演。同年、Fania All-Starsとともにアルバム『Habana Jam』を制作。1993年にはピアノ・ソロのアルバム『Latin Jazz』を制作。

Penthouse
M.F.P.
G.P. Expreso



Héctor Lavoe(1946~93)
エクトル・ラボーは、プエルトリコに生まれ、米国に移住して成功したサルサ歌手の代表である。本名はHéctor Juan Pérez Martínez。1946年9月30日にプエルトリコ島の南部ポンセの町に貧困家庭の8人兄弟の一人として生まれ育ち、3歳のときに母親を亡くしたが、音楽家である父親に指導を受けて成長した。父親の勧めで音楽学校に進学して、当初はサクソフォンの奏者になろうとした。14歳で歌手として街頭で稼ぎ出した。 その後1963年5月に幼馴染の友人を頼ってニューヨークに渡り、1965年には最初のレコード『Está de Bala』を発表した。1967年にはWilly Colónが率いる音楽グループに参加し、徐々に名声を強め、1975年には『La Voz』を発表してソロ歌手として活躍し始め、サルサのカリスマ的な歌手として君臨し始めた。
  しかしラボーは、1987年に息子がピストルの暴発で死亡して以来、精神的に病み始め、1988年にはエイズ感染が発覚したことも追い打ちをかけることになり、一度自殺に失敗した後、精神的な問題を抱え続け、歌手として活躍できなくなり、1993年6月に46歳でニューヨークで亡くなった。
 2007年にはサルサの大物歌手であるマーク・アンソニーがエクトル・ラボー役を演じ、当時彼の妻であったプエルトリコ系の女優ジェニファー・ロペスと共演して話題を呼んだ映画『エル・カンタンテ』が製作され、全世界で上演され、エクトル・ラボーの伝説が語り継がれるようになった。


*Vamos A Reir Un Poco
*El Cantante
*Comedia



Jerry Rivera(1973~)
 1973年7月31日、プエルト・リコのサンフアン市内のサントゥルセに両親ともに音楽家の家庭に生まれる。本名はGerardo Rivera Rodríguez。同地で小学校と中学校を終えた。1986年、13歳の時にサンフアン市内のホテルで父親と共演していた時にそのホテルに滞在していた歌手Frank Ruizに見出される。この時Frank Ruizと写した写真を、2003年に発表したアルバム『Canto a Mi Ídolo..... Frank Ruiz』のジャケットに使用した。
 1988年、音楽評論家のTommy Plivenciaが父親との共演を見た後、Jerryにソロ活動するように勧めた。2枚目のアルバム『Abriendo Puertas』にはヒット曲となった「Esa Niña」「Tal Vez」「Como un Milagro」が収録されていた。3枚目の『Cuenta Conmigo』もヒットした。1995年には、Luis Miguelがヒットさせた「Suave」のリメイクを発表。
1998年には「Ésa」を収録する『De Otra Manera』を発表。
 2006年にはShakiraの曲「Hips Don’t Lie/ Será,Será」が「Amores Como el Nuestro」に極似していると摩擦を起こした。2007年には「Volver」、「Por Una Cabeza」、「El Día Que Me Quieras」が収録されたタンゴの巨匠・カルロス・ガルデルをテーマとした『Caribe Gardel』を発表、2009年にはMalúとデュエットで「Como Te Olvido」を歌い、Malúのアルバム『Vive』に収録された。

Esa Niña
Volver
Amores Como el Nuestro
Como Te Olvido



Los Van Van(1969年結成)
 1969年12月にキューバのベーシストのJuan Formell(2014年5月1日死亡)によって結成されたサルサ・オーケストラ。1970年にはFormellが、特にソンからSongoという新しいリズムを創出。さらに、ジャズやロックの要素も取り入れパーカッション、ピアノ、バースを中心とした演奏モデルを確立。当時のメンバーは、José Luis Quintana、 Raúl Cárdenas”El Yulo”、 César Pedroso”Pupi”、 Fernando Layve、 Jesús Linares、 Orlando Canto、 José Luis Cortés”el Tosco”、 Julio Noroño、Gerardo Miró、 William Sánchez、 José Luis Martínez、 Miguel Ángel Rasalps”el Lele”であった。
1980年代にはトロンボーンやシンセサイザーも加えた。1982年にはアルバム『Bájalo Eh! Ah!』、1984年に『Anda,Ven y Muévete』、1985年に『La Habana Sí』 『Eso Que Anda』、『Caribe』、『Se Acabó el Querer』を発表した。1990年には結成20周年を記念して全国ツアーを実施している。 1993年には「Que le Den Candela」、「Ese es Mi Problema」収録したアルバム『Disco Azúcar』、1994年には「Soy Normal, Natural」、「Qué Sorpresa」を収録したアルバム『Lo Último en Vivo』、1995年には「Deja la Ira」、「De Igual a Igual」を収録したアルバム『Ay Díos Ampárame』、1997年には「Esto Te Pone la Cabeza Mala」、「Llévala a Tu Vacilón」を収録したアルバム『Te Pone la Cabeza Mala』を、1999年にはアルバム『Van Van』を発表した。
2000年には、アルバム『Van Van』でラテン・グラミー賞を受賞。2010年にはシングル『A Cali』が第52回カリ音楽祭で最優秀賞を受賞。

Ese Es Mi Problema
Soy Normal,Natural
Qué Sorpresa
Deja La Ira
Esto Te Pone la Cabeza Mala
Llévala a Tu Vacilón



La India(1969年~)
 1969年3月9日、プエルトリコのRío Piedras生まれ。本名Linda Viera Caballero.。 サルサ・ミュージシャンRío Piedraのスタジオで音楽活動を開始。Marc Anthony とデュエットで『Vivir Lo Nuestro』の制作に協力。2002年に「Sedúceme」、「Tración」をサルサからバラードにバージョン・アップ。現在は、プロデューサーのDJMemoと協力してレゲトンに進出。

Breaking Night
Llegó La India
Dicen Que Soy
Sola
Me Canse De Ser La Otra



DLG(1995年結成)
 1995年にニューヨークで結成されたサルサ・レゲエ・バンド。Sergio Jeorge(1961年5月、マンハッタン生まれ)、 Huey Dunbar、James “DaBarba” De Jesúsが結成。DLGは“Dark Latin Groove”の意。1996年にヒット曲となった「No Morirá」、「Todo Mi Corazón」、「Me Va A Extrañar」を収録したアルバム『Dark Latin Groove』を発表。その後作曲家のAnthony López “Tony CJ”が加入。1997年に2枚目のアルバム『Swing On』、収録曲「La Quiero A Morir」と「Juliana」がヒット。1999年に3枚目のアルバム『Volveré』を制作。2001年に解消、2008年Dunbar抜きに復活。4枚目のアルバム『Renacer』を制作。Yahaira”Miss Yaha” Vargas等が加入、「Quiero Decirte Que Te Amo」、「Toro Mata」を歌う。

No Morirá
Me Va A Extrañar
Dark Latin Groove
Volveré
La Quiero A Morir



Michael Stuart(1975年~)
 1975年1月13日、ニューヨーク生まれ。父親が1960年代にドミニカ共和国から移住。音楽的には叔父のIsareal”Timbalero”Stuartの影響を受けヒップホップとロックを聴いて育ったが、ラテン音楽に親しみを示すようになる。叔父“Timbalero”に従いて現場で音楽を学び、1996年に最初のアルバム『Cuentos de la Vencidad』を発表してヒット。1998年に2枚目のアルバム『Retratos』を発表、またオルガ・タニョンとともにJesús Christ Superstarのプエルトリコ版をサンホセで演じる。1998年にBanco Popular主催で作曲家Rafael Hernández追悼公演にRicky MartinやGilberto Santa Rosaとともに参加。
 2000年には3枚目のアルバム『Súbeme el Volmen』を発表、また映画『Bajo Sospecha』のために「Algo En Ella」を」歌ってヒット。2002年には4枚目のアルバム『Michael Stuart』を制作、2004年にはラテン・ポップス系のアルバム『Sin Miedo』を発表。2006年にはサルサとレゲトンを含んだアルバム『Back to the Barrio』を制作。2007年にはサルサのアルバム『Sentimiento de un Rumbero』を発表。2008年8月には海岸で開催されたフェスティバル「Back to School」に参加。

Ven Báilalo
Nadie Sabe
Mayor Que Yo
Amor A Primera Vista



Maelo Ruiz(1966年~)
 1966年10月22日、ニューヨークに生まれる。本名はIsmael Ruiz Hernández。4歳の時に家族とともにプエルトリコに転居、16歳の時にCaguas自由音楽学校で歌い始める。19歳の時にPedro Conga y Su Orquestraのボーカルとして音楽活動を始め、7年間続け、アルバム4枚を制作した。最大のヒット曲は「No Te Quites La Ropa」。他に、「Atrévete」「Vicio」、「Quiero Volver」、「Si Supieras」、「Te Quiero Amor」、「MeNiegas Tanto Amor」もヒット。
 1994年にはソロ歌手としてデビュー・アルバム『Solo』を発表、「Te Necesito Mi Amor」がヒット。1996年にはアルバム『Experiencia』を制作、「Te Amo」、「El Reloj Cucú」、「La Primera Noche」、「La Dueña de Mi Corazón」がヒット。1999年に3枚目の『Maelo Ruiz』を制作、「Oh Mujer」、「A Media Luz」、「Maldito」がヒット。2004年には4枚目の『En Tiempo De Amor』を発表、2007年には『Puro Corazón』を発表。現在は、グアダラハラ自治大学に勤務。

Te Necesito Mi Amor
Te Amo
La Primera Noche
A Media Luz
Maldito



Ray Barreto(1929~2006)
 1929年4月29日、ニューヨークでプエルトリコ系家庭に生まれる。本名はRaymond Barreto Pagán。サルサおよびジャズ・ピアノの作曲家・歌手。 アフロ・カリブ系およびサルサ風のラテンジャズの傾向を持つ。ドイツで海兵隊に勤務した時にコンガを演奏。ニューヨークに帰還後、ジャズを演奏し、1950年代末にはTito Puentesのバンドで4年間Mongo Santamariaの後任となる。
 1961年にアルバム『Barreto Para Bailar』を制作、1962年には『Panchagan With Barreto』を制作。ロックやポップを取り入れて当時のラテン音楽の主流であったCharangaの現代化を図る。1960年代にはGene Ammons、Cannonball Adderley、Kenny Burrell、 Lou Donaldson、Red Garland、Dizzy Gillespie、Freddie Hubbard、Wes Montogomery、 Cal Tjader等のジャズやポップ系ミュージシャンと共演。1967年にはFania All-Starsのディレクターとなる。1968年にアルバム『Acid』を制作、1973年にはFaniaを離脱して、“Típica 73”を結成して、アルバム『The Other Road』を制作、その後事故に遭い2年間休業。1979年にFaniaに復帰。1980年にTito Puente、Joe Farrell、Charlie Palmieriとともにアルバム『La Cuna』を制作。1991年には新たなセクステットNew World Spiritを結成して、8枚のアルバムを制作。2006年2月17日に死亡。享年76歳。

Charanga Moderna
Llamame
Yo Soy la Candela
Café Con Leche



Willie Colón(1950年~)
1950年4月28日、ニューヨークのブロンクスでプエルトリコ人を両親として生まれる。本名はWilliam Anthony Colón Román。サルサ・ミュージッシャン。祖母と叔母にプエルトリコの伝統的音楽やキューバのソン、タンゴなどの音楽に満ちた環境の中で育てられる。11歳の時にクラリネット、トランペット、トロンボーンの演奏を学ぶ。Tito Puente、Eddie Palmieri、Charlie Palmieri、Ray Barreto、Machito、 Tito Rpdríguezらのアフロ=ジャズ系の楽団と協力。音楽界に参入した当時は外来者と見なされ、“El Malo”と呼ばれた。 17歳の時にJerry MasucciやJohnny Pachecoと共演、1967年から1973年までにHéctor Lavoeと協力、アルバム9枚を制作。1967年にアルバム『El Malo』、1968年に『The Hustler』を発表。1969年には3枚目のアルバム『Guisano』を制作、音楽政策面で反逆的な新傾向を示した。1969年に制作された『Cosa Nuestra』によって基盤を強化。「Che Che Colé」はラテンアメリカ諸国やフランスでもヒット。また、「Te Conozco」、「Tú No Puedes Conmigo」、「Sangrigorda」、「Ausencia」もヒット。1970年に5枚目のアルバム『Asalto Navideño』を、1971年に6枚目の『La Gran Fuga』を制作。
 1973年に『Asalto Navideño Vol.2』を制作したが、1974年にLavoeとコンビ解消して休業。1975年にはRubén Bladesと組み、『The Good,The Bad,The Ugly』を制作、ソロで「Toma」、「Cua Cua Ra Cua Cua」、「Guaracha」を歌う。同年、Mon Riveraと『Se Chavó el Escindario』を制作。1978年にはLavoeのソロ・アルバム『Comedia』の制作に協力、同年Rubén Bladesとアルバム『Siembra』を共作。1979年にはLavoeのためにアルバム『Recordando a Felipe Pirela』を制作。1981年にはBladesとともに『Canciones del Solar de los Aburridos』を共作、また自身の2枚目のアルバム『Celia y Willie』を制作。
 1979年にはソロ活動を開始し、同年アルバム『Solo』を制作、1981年には『Fantasmas』を制作、1983年にはLavoeと協力してアルバム『Vigilante』を制作、1984年には『Tiempo Pa’Matar』を制作してFaniaレコードと決別、「El Daiblo」がヒット。1986年にはサルサ調に戻ってソロ6枚目のアルバムを制作、「Lo que Es de Juan」、「Soltera」を収録。1990年には6枚目の『Color Americano』を制作、1991年には9枚目の『Honra y Cultura』を発表、「Yo Te Podría Decir」、「Desde Hoy」、「Idilio」を収録。1995年には『Tras la Tormenta』を制作。
 1999年には重債務国の債務キャンセルを求める国際的な運動であるJUBILEE2000に参加、Jefffrey Sachsやロック・バンドのU2らとともにローマ法王JuanPablo IIにクリントン大統領あてに米国が有する債権14%の放棄を要求する請願書に署名するよう求める。

El Día de Suerte
Todo tiene Su Final
Toma
Cua Cua Ra Cua Cua
El Diablo
Yo Te Podría Decir



Rubén Blades(1948年~)
 1948年7月16日、パナマ・シティ市内のSanFelipe街に生まれる。父親はコロンビア人のパーカッション奏者で母親はキューバ人ピアノ奏者。父方の祖母は薔薇十字会員で画家、詩人。母方の祖父母はスペイン人。Rubénの音楽は知的サルサとかサルサ詩人と呼ばれる。これまでにアルバム20枚以上を発表。1994年にはパナマの大統領選挙に出馬、7名の候補者のうち20%を得票。2004年の大統領選挙ではOmar Torrijosの子息であるMartín Torrejosを支援。2004年から2009年まで観光相を務める。  幼少期より音楽に親しみ、15歳のときに1964年1月のパナマ騒動に遭遇、親米姿勢を放棄するとともに社会政治的な関心を強める。1980年にWillie Colónと3枚目のアルバム『Maestra Vida』を制作、「Manuela」、「El Nacimiento de Ramiro」、「Maestra Vida」を収録。1981年にはアルバム『Canciones del Solar de los Aburridos』を制作、その中にはラテンアメリカにおける米国の覇権を批判した「Tiburón」、「Ligia Elena」、「Madame Kalalú」、「Te Están Buscando」。  1982年には5枚目のアルバムを制作、「Yo Puedo Vivir del Amor」、「What Happened」が好評。1983年にはFaniaレコード社と決別し、自らのレーベルElektraレコード社を創設、セクステット“Los Seis del Solar”を結成。1984年には新レーベルからの最初のアルバム『Buscando América』を発表、「Desaparecidos」、「Buscando Améica」を収録。1985年にはアルバム『Escenas』を発表。1987年にはガルシア・マルケスの作品『青い目の犬』に刺激されたアルバム『Agua de Luna』を制作、1988年には英語版のアルバム『Nothing But the Truth』を発表、このアルバムでサルサから決別しポップ・ロックに移行し、「The Miranda Syndrome」、「Chameleons」を収録。1990年にはアルバム『Live!』を発表したが、これがElektra社での最後の作品となる。  サルサ界からの離別は10年に及んだが、1988年にはアルバム『Antecedentes』を制作、「Juana Mayo」、「Plaza Herrera」、「Patria」等を収録。1991年には『Caminando』を、1992年には『Amor y Control』を、1995年にはWillieと復活し『Tras la Tormenta』を制作、二人で「Doña Lele」、「Dale Paso」、「Tras la Tormenta」を歌う。  1996年に『La Rosa de los Vientos』を制作、「Vino Añejo」、「Amor Mudo」、「Eres Mi Canción」を収録。その後3年間休息した後、1999年にアルバム『Tiempos』を制作し、「Tu y Mi Ciudad」、「20 de Diciembre」、「Puente del Mundo」を収録。2002年には『Mundo』を制作し、ヨーロッパ、アフリカ、米州のリズムの融合を図った。収録曲には「Primigenio」、「Estampa」、「Jiri Son Bali」等がある。同年、プエルトリコの銀行が主催したコンサートにDraco Rosa、Juan Luis Guerraとともに参加し、アルバムとDVD『Encuentro 2002』を制作、「Patria」と「Qué Bonita Luna」を合唱。  2004年にはSpanish Harlem Orquestraのアルバム『Across 110th Street』の制作に協力し「Tú Te Lo Pierdes」を歌う。2009年には5年間の公職(観光相)期間を経て、2003年に制作したアルバム『Cantares del Subdesarrollo』を発表。以後独立してネット配信による活動を開始。2011年にはアルバム『Todos Vuelven』を発表、2012年にはCheo Felicianoとの共作アルバム『Eba Say Ajá』を制作、二人で「Si Te Dicen」、「Lo Bueno Ya Viene」を歌う。

Tiburón
Te Están Buscando
Patria
Tú Te Lo Pierdes
Si Te Dicen



Roberto Blades(1962年~)
 1962年7月2日、パナマ・シティに生まれる。Rubén Bladesの弟。1981年、Robertoの呼びかけでマイアミ居住のミュージシャンがトロピカル楽団であるLa Inmensidad結成に結集。「Lágrimas」、「Ya No Regreso Contigo」を発表。Gloria EstefanやMarc Anthonyとともに『Encore』を制作。主要ヒット曲は、「Casco」、「Señora」、「María」、「El Artista Famoso」、「Poquita Fe」、「Flor Dormida 」、「Víctima de Afecto」。

Lágrimas
Ya No Regreso Contigo
Si Estuviera Conmigo



Willy Chirino(1947年~)
 1947年4月5日キューバのピナル・デル・リオ州Consolación生まれ。本名はWilfredo José Chirino。1960年に家族とともにキューバを脱出し、マイアミに居住。米国(CIA)、カトリック教会、キューバ人亡命者が画策したPeter Pan作戦で移住を強要されたとの説もある。1974年から音楽活動を開始し、22枚のアルバムを発表。

Nuestra Día
Tu Eres Mejor
Oxígeno



Salsa Kids(1993年結成)
 1993年にプエルトリコでOmar Rodríguez(ニューヨーク生まれでその後プエルトリコのRío Grandeに移住)、Esteban Tollinchi(プエルトリコのBayamon生まれ)、 Ángelo Jovetの3人が結成したサルサ・バンド。1997年にÁngeloが離脱し、Laz Herrera(マイアミ生まれ、父親はキューバ人で母親はチリ人)とJomy Colón(プエルトリコ生まれ、)が加入。1994年に「La Magia de Tus 15 Años 」が「Siempre」、「Dime Que Sí」、「Oye Niña」とともにヒット。“¡Eeeeeeeeeeehhh、Salsa Kids”の叫びで有名になる。1997年にはアルバム『Jóvenes』を発表したがヒットせず。1998年に発表した「Déjame Un Beso」を収録したアルバム『Nadie Nos Va A Detener』が再ヒット。1999年にアルバム『Serie Millemnium 21』を制作。その直後に解散、メンバーはソロ活動を開始。2007年にOmar、Esteban、Jomar Colónが再結集して『Baila Conmigo』を制作。2013年にエクアドル人Jorge Luis Navas(Guayaquil生まれ)が加入。

Dejame Un Beso
Nadie Nos Va A Detener



Henry Fiol(1947年~)
 1947年1月16日、ニューヨーク生まれ。父親はプエルトリコ系で母親はイタリア系。ニューヨークのHunter Collegeで芸術を学ぶ。その後、教員としてカトリック系学校で芸術を講義。1979年代に音楽活動を開始、1974年から78年まで、共同結成したConjunto Saocoでコンガを演奏。1976年にデビュー・アルバム『Siempre SeréGuajiro』を発表。1978年に『Macho Mumba』を制作。1979年にConjunto Saocoから離脱、ソロ活動を開始しヒット曲となった「Oriente」、「La Juma de Ayer」」を収録したアルバム『Fe,Esperanza yCaridad』を制作。1981年には「El Secreto」を、1983年には「La Ley de la Jungla」を制作。
 1983年にバンドCorazónを結成、「Corazón」、「Cororado y Negro」、「Juega Billar」を制作。1987年から1991年には再びソロ活動に戻り、1989年にはアルバム『Orlando』を発表。

Oriente
La Juma de Ayer
la Ley de la Jungla
Corazón
El Secreto



Gilberto Santa Rosa(1962年~)
 1962年8月21日、プエルトリコのSanturce生まれ。本名はGilberto Santa Rosa Cortés。別名は“Caballero de la Salsa”。 12歳の時アマチュア・バンドを結成。  1980年に“Homenaje a Eddie Palmieri”の作成に参加。その後、Tommy Olivencia楽団、Willie Rosario楽団に加入。24歳のときにソロ・デビュー、アルバムを4枚制作し、サルサの第一人者と認められる。1990年に劇『La Pareja Dispareja 』に出演。1991年に『Perspectiva』、1992年に『A Dos Tiempos de un Tiempo』、1993年に『Nace Aquí』、1994年に『De Cara al Viento』、1995年に『The Man and his Music』、1996年に『Esencia』、1997年に『De Corazón』を発表。“Salsa Sinfónica”と称される。
 1999年にはアルバム『Ezpresión』を発表。2002年にはアルバム『Viceverse』を制作、2003年2月に故Tito Rodríguez追悼コンサートで好評を博す。2004年年頭のサンフアンの芸術センターでリサイタルを開催。2013年6月にドミニカ共和国の国籍を取得。

Si No Me Ven Llorando
Esas Lágrimas
Ni Te llamo Ni Te Busco
Pa Quererse No Hay Que Verse
Vivir Sin Ella
Conciencia
Perdóname
Sin Voluntad



Rey Ruiz(1966年~)
 1966年7月21日、キューバのハバナ市内のラ・リサ地区に生まれる。別名「El Bombón de la Salsa」。幼少期から音楽に才能を見せたので両親がハバナ音楽学校に進学させる。テレビの幼児番組で歌い始め、ハバナ・ヒルトン・ホテルや、さらにトロピカーナで歌い始め、1984年のトロピカーナの海外公演に同行してキューバを放棄し、ドミニカ共和国に残留。後に、サルサが絶頂期にあったマイアミに移って活動を展開。
 1992年に最初のアルバム『Rey Ruiz』を発表、1994年にアルバム『Mi MediaMitad』と『Los Ruiz Señores』、1995年に『En Cuerpo y Alma』、1996年に『Destino』、1997年に『Poruqe Es Amor』、1998年に『Amiga』、2000年に『Fenomenal』、2004年に『Mi Tentación』、2006年に『Corazón Arrepentido』を制作、バラーダ調の傾向を示す。2009年には『El Mensaje』、2010年には『Mis Preferencias』を発表。

Ya Ves Quien Soy
Porque Es Amor
Creo en el Amor




Willie González(1961年~)
 1961年5月13日、プエルトリコのBayamón生まれ。本名はWilberto González。官能派サルサ歌手。15歳の時にトロンボーンを演奏してOrquestra de Chamacoに参加。1982年にEddie SantiagoとともにOrquestra Saragüey を結成。その後、Conjunto Chaneyに参加。1988年にOrquestra Noche Sensualをバックにソロ活動を開始。同年、デビュー・アルバムの『Willie González,Original y Único』を発表。1989年にアルバム『Sin Comparación』、1990年に『Para Ustedes,....El Público』、1992年に『Justo a Tiempo』、1995年に『Hacia Un Nuevo Camino』、2000年に『Sensualmente, A Mi Estilo』、2003年に『Reencuentros』、2005年に『Lo Nuevo y Lo Mejor』、2006年に『Clásicos en Vivo』、2008年に『Íntimo y Sensual』、2010年に『Jeré.....』、2013年に『Siempre Comtigo』を発表。麻薬吸引には厳しい姿勢を堅持。

En la Intimidad
Amor Pirata
No Podrás escapar de Mi
Soy Tu Amante
Una Vez Más
Si Supieras
Juré



Eddie Santiago(1961年~)
 1961年8月18日、プエルトリコのToa Alta生まれ。本名はEduardo Santiago Rodríguez。サルサ歌手。Conjunto Chaney、Generación 2000、Orquestra La Potente、Orquestra Opus、Orquestra Saragüey等と共演。Frankie Ruizのコーラスにも参加。1986年にソロ活動を開始。1986年にアルバム『Atrevido y Diferente』、1987年に『Sigo Atrevido』、1988年に『Invasiónde Privasidad』等17枚のアルバムを発表。最新作は2014年の『Lo Más Romántico』。

Mía
Intensamente
Cada Vez, Otra Vez
Enamorado



Frankie Ruiz(1958年~)
 1958年3月10日、ニュージャージー州Paterosn生まれ。本名はJosé Antonio Torresola Ruiz。別名“El Papá de Salsa”、“El Tártaro de la Salsa”と呼ばれる。プエルトリコ系。母親は14歳の時にFrankieを出産し、父親が放棄した、ため祖父母に育てられ一時は祖父母の名字からJosé Antonio Ruiz Negrónと名乗った。幼少時からサルサを歌い始め、7歳の時から歌い始め、1971年に13歳の時にCharlie López とLa Orquestra Nuevaとともに録音。1974年にプエルトリコに渡ってMayagüezに定住してLa DictadoraやLa Moderna Vibraciónらのグループを歌う。1977年にLa Orquestra La Soluciónに参加。1979年にアルバム『Frankie Ruiz』と『La Solucuón』を制作。
1981年にはTommy Olivenciaの楽団でアルバム『Un Triángulo de Triunfo』に収録された「Fantasia de un Carpintero」を歌う。1983年には『Tommy Plivencia』に収録された「Como Una Estrella」、「No Que No」、「Cómo Lo Hacen」をヒットさせる。1984年には『Celebrando Otro Aniversario』の制作に参加して「Lo Dudo」をヒットさせる。1985年にソロ活動に戻りアルバム『Solista Pero No Solo』を制作。1987年には『Voy Pa’Encima』を制作。
 1989年に麻薬所持で逮捕され5年間投獄されたが、アルバム『En Vivo y a Todo Color』を発表、「Si Te Entregas A Mi」がヒット。1992年に『Mi Libertad』を発表。1993年には『Puerto Rico Soy Tuyo』、1995年に『Mirándote』を発表。1996年に『Tranquilo』を制作。

No Que No
Cómo lo Hacen
Lo Dudo
Si Te Entreagas a Mí



El Gran Combo de Puerto Rico(1962年結成)
 通称“El Gran Combo”の名で知られるプエルリコの最も著名なサルサ・バンド。1962年に”Rafael Cortijo y Su Combo”が解散した後、これを離脱したRafael Ithier、Eddie Pérez、Héctor Santos、Rogelio “Kito”V´ñez、Martín Quiñones、Miguel Cruz、Milton Correea、Roberto Roenaによって結成される。同年5月21日にラジオを通じてデビュー。その後テレビ番組にも出演。
 1963年に最初のアルバム『El Gran Combo......De Siempre 』を発表。しかし、2日後に発生したケネディ大統領暗殺事件のためプエルトリコでの発売が延期され、メキシコ、パナマ等で先行発売され好評を得る。翌1964年からはニューヨークでも公演活動を連続。1967年に『Boogaloo Con el Gran Combo』、『Maldito Callo』他を発表。1968年には『Pata Pata, Jala Jala y Boogaloo』、『Los Nenes Sicodédicos』他を制作、1970年に『EstamosPrimeros』、1971年に『De Punta a Punta』、1973年に『En Acción』、『5』、1974年に『Disfrútelo Hasta el Cabo』、1975年に『7』、1976年に『Mejor Que Nunca』、1977年に『Internacional』、1978年に『En Las Vegas』、1979年に『¡Aqúi No Se Sienta Nadie』、1980年に『Unity』等を発表。
2006年以降だけでも40枚以上のアルバムを制作、最新作は2010年に発表した『Si No Hay Salsa No Hay Paraíso』。2012年11月11日に結成50周年を迎えた。

Falsaría
Un Verano en Nueva York
Eliminación de Feos
Gotas de Lluvia
La Muerte
Azquita Pa' el Café
La Fiesta de Pilito
No Hay Pa’ Tanta Gente



Johnny Pacheco(1935年~)
 1935年3月25日、ドミニカ共和国のSantiago de Caballeros生まれ。本名はJuan Azarías Pacheco Kiniping。ドニミカ人でありながらキューバ音楽とサルサの表現者として知られる。父親はOrquestra Santa Ceciliaの指揮者兼クラリネット奏者。11歳の時に家族とともにニューヨークに移住、パーカションの演奏を学ぶ。  1950年代末にはCharlie Palmieriのバンドに参加。1960年には独立でした“Pacheco y su Charanga”を結成、アルバム『Pacheco y su Charanga Vol.1』を発表。以後、国際的に活躍し、1962~63年にはアポロ劇場で演奏するラテン系最初の楽団となる。1963年末にJerry MasucciとともにFaniaレコード社を設立、1964年には最初のアルバムであるPete“El Conde”Rodríguezをボーカルとする『Cañonazo』を発表。1968年にはFania All Stars楽団を結成、Willy Colón、Héctor Lavoe、Larry Harlow、 Ray Barretoらが所属した。アフロ・キューバン音楽が普及する上で重要な役割を果たす。

Agua De Clavelito
Las Muchachas
Caramelo
Compay André
El Piñazo
El Chéchere



コロンビア・サルサ


Los Titanes(1981年結成)
 1981年に作曲家であるJosé Barrosの子息であるAlberto Antonio Barros CaraballoによってコロンビアのBarranquillaで結成される。デビュー・シングルはLey Martínが作曲し、ボーカルのSaulo Sánchezが歌った「Una Palomita」。1982年のBarranquillaで開催されたカーニバルに出場して入賞。

Una Palomita
Levanta el Cuero
Por Retenerte
Sobredosis
En trance
Mi Amante Niña Mi Compañera



Orquestra Guayacán(1984年結成)
 1984年にAlexis Lozanoをリーダーとしてコロンビアのボゴタで結成されたサルサ・バンド。Alexisはアフリカ系住民が多い太平洋岸のChocó県生まれ。その後、ボゴタ市に転住し、Jairo Varera等のミュージシャンとNicheというグループを結成し、『Al Pasito』(1979年)、『Querer es Poder』(1981年)、『Prepárate Grupo Niche Vol.2』(1982年)、『Niche』(1983年)の4枚のアルバムを発表。
1984年にVareraと決別し、Orquestra Guayacánを結成。1985年にアルバム『Llegó la Hora de la Verdad』を制作、1987年には『Sangre』を、1988年に『Guayasán es la Orquestra』を発表。同年、メンバーのRichie VáldezとWilliam Váldez が離脱して、VareraとGrupo Nicheを結成。1990年以降、コロンビアだけでなく米国や他のラテンアメリカ諸国にも影響を拡大、「Pau Pau」、「Un Mal Noche」、「Te Amo,Te Extraño」、「Cada Día Que Pasa」、「Un Amor a Cuenta Gotas」、「Un Amor a Hoguera」、「Mi Muchachita」、「Un Vestido Bonito」、「Yolanda」等のヒット曲を制作。2011年2月にメインボーカルであったJairo Ruiz Mamianがメキシコの自宅で絞殺されて死亡。「Invierno en Primavera」、「Amor a Cuenta Gotas」、「Cada Día Que Pasa」で知られていた。

Pau Pau
Un Mal Olor
Te Amo,Te Extraño
Cada Día Que Pasa
Un Amor a Cueta Gotas
Amalia de Noche



Joe Arroyo(1955~2011)
 1955年11月1日、コロンビアのカルタヘナ市内のNariño生まれ。本名はÁlvaro José Arroyo González。アフリカ系のサルサ歌手。別名Centurión de la Noche。8歳の頃からバーなどで歌い始め、Los Caporales del Magdalena、Manuel Villanueva y su Orquestra、El Supercombo Los Diamantesと共演するようになる。1971年には「La Protesta」を制作。1973年にプロデューサーのJulio Ernesto Estradaに認められ、1981年まで協力。1974年~75年にはLos Líderesで 、1976~81年にはThe Latin Brothersと共演。1976年にはLos Bestialesと、1978年にはPancho Garánと、1980年にはLos Titanesと共演。  1981年に独自の楽団La Verdadを結成。この楽団でサルサとクンビア、Porro、Chandé、レゲエ、Soccaを融合する実験を経て、独自のリズムである“Joesón”を創造。ヒット曲は、「La Rebelión」(1986年)、「El Caminante」、「La Guerr ede los Callados」(1990年)、「Fuego」(1993年)がある。2004年にアルバム『Se Armó la Moña en carnaval』、2006年に『Mosaico de Trabalenguas』、2007年に『El Siper Joe』を制作。若い頃より腎臓機能難の持病があり、2011年7月末に持病が悪化して入院したが、同26日にBarranquillaで死亡。享年55歳。

La Rebelión
El Caminante
la Guerra de los Callados
Fuego




ベネズエラ・サルサ


Oscar D’León(1943年~)
 1943年7月11日、ベネズエラのカラカスに生まれる。本名はOscar Emilio León Simoza。別名、「世界のSonero」、「サルサのFaraón」とも呼ばれ、世界的に「El Diablo de la Salsa」と知られる。幼少時代からカリブ音楽に関心を持ち、Trio MatamorosやLa Sonora Matancera、Bilo’s Caracas Boysの曲を歌う。機械工やタクシー運転手をしたあと、28歳の時に本格的に音楽活動を開始。
 1972年にLa Dimensión Latinaを結成、アルバム『Pensando en Ti』を発表。1974年には『Que Bien Tós』を制作、「La Piragua」、「Llorarás」、「La Vela」、「Divina Niña」、「Taboga」、「Juancito Trucupey」、「El Futuro」、「Dolor Cobarde」がヒット。 1977年ににはDimensión Latnaを離脱し、ソロ活動を開始し、自らの楽団であるLa Salsa Mayorを結成、「Mi Bajo y Yo」、「El Baile de Suavecito」がヒット。その後、La Salsa Mayorを解散しLa Criticaを結成。1983年にキューバで公演したことから、親キューバ派であると批判されたが、本人はキューバとキューバの音楽を愛しているが、キューバ政府に対しては批判的であると表明。
1988年にはBillo’s Caracas Boysと「Ariel」を制作。1996年にはキューバ人のWilly Chirinoとともにアルバム『Sonero del Mundo』を制作、1998年3月15日にはニューヨークで「Oscar D’Leónの日」を指定。2000年にはディズニー映画のソノラ・バンドである「Las Locuras del Emperador」に参加、2001年にはアルバム『Más Que Amor』を制作。2009年にカラカスで心臓発作を起こしたが回復、2013年に自宅で頭部を強打、左眼の視力を喪失。

La Piragua
Llorarás
Divina Niña
Dolor Cobarde
Mi Bajo y Yo